19世紀の最も有名な犯罪
ニュルンベルクから南西に約50㎞にアンスバッハという小さな町がある。フランケンへーエ自然公園があり、市内にはレジデンツ(王宮)や聖グンベルトゥス教会など見どころが多い。町の中心地に近いプラーテン通り(Platen str.)を曲がると、うつむき加減に佇む男の銅像が目に入る。この像のモデルはカスパー・ハウザーという人物だ。その記念碑には《ここに謎にみちた男が謎にみちた方法で殺害された。》(Hic occultus occulto occisus est)とだけ記されている。
2通の手紙
事の発端は200年前に遡る。1828年5月26日のニュルンベルク。この日は聖霊降臨祭というカトリックの祝日であったため、商店は店を閉め、町には人がほとんどいなかった。ヴァイクマン(Weickmann)という靴職人の親方がペグニッツ川の畔にあるウンシュリット広場(Unschlittplatz )に出かけたところ、そこで奇妙な歩き方をする少年を発見する。薄汚い身なりでどこかおびえたような立ち振る舞いであった。不審に思ったヴァイクマンは少年にいくつか質問をしてみたものの少年はまともに答えられなかったため、念のため少年を警察の詰所へと連れていくことにした。しかし、警察が質問をしても一向に要領を得ない。そこで警官は少年に紙と鉛筆を渡してみると、少年はぎこちなく鉛筆を動かしはじめた。紙には「カスパー・ハウザー」とだけ書かれてあった。
この夜、カスパーはニュルンベルクの刑務所へと連れていかれ、そこで夜を過ごしている。
カスパーの存在はニュルンベルク市長、ヤコブ・フリードリッヒ・ビンダー(Jakob Friedrich Binder)の知るところとなり、孤児として市当局に保護されることになる。カスパーは発見されたとき、一枚の紙を手に持っていた。その手紙には「カスパーは1812年4月30日に生まれた。」と書かれてあった。手紙の情報が正しければ、カスパーは発見当時16歳だったことになる。そして「この少年の父親は騎兵であったが既に死去しており、父と同じ騎兵に採用してほしいが、手に余れば殺してほしい」と書かれてあった。ニュルンベルク市長のビンダーは、この頃すでにカスパーが高貴な家庭の出ではないかという「噂」を話していた。そして町では、カスパーに「ヨーロッパの子供」(Kind von Europa)というあだ名が付けられていた。
カスパーの特殊能力
カスパーの出自の謎は深まるばかりだったが、その疑問もさることながら、人々が驚いたのはこの少年が身に着けていた特殊な能力であった。驚いたことに、カスパーは暗闇でも聖書を読むことができただけでなく、色彩も判別できたという。金属を握っただけで鉄や真鍮などその材質を言い当てたり、遠く離れたクモの巣に獲物がかかっていることを察知するといった、一種オカルト的とも呼べる「超能力」を発揮したのだ。しかし、この驚異的な能力は、カスパーが一般的な食事や普通の生活に順応するにつれて徐々に失われてしまう。
カスパーはさらなる調査の為、ニュルンベルクの町を流れるペグニッツ川の中州、シュット島(Insel Schütt)へと連れていかれた。そこには、ヴュルツブルクの医師、ダウマー教授(Georg Friedrich Daumer)が母親と妹と暮らしていた。
ダウマーはカスパーに並々ならぬ関心を示し、ほぼ毎日彼の元を訪れ、教育を施すことになる。ダウマーはカスパーに読み書きや算数を教えた。驚いたことに、普通の小学生であれば習得までに数年かかる知識をカスパーは短期間で吸収し、わずか数ヶ月後には言葉を流暢に話すようになっていたのである。しかし、こういった人並外れた知識の吸収は「実はカスパーが最初から狡猾な嘘つきで、周りを欺いていたのではないか」という疑念も生んだ。
カスパーは特種な能力を発揮する一方で、通常の生活を送っていれば身につく常識や人間らしさは持ち合わせていなかった。そこから想像できるのは、カスパーは幼少の頃からかなりの長期間に渡って人との接触を絶たれ、監禁状態にあったのではないかということだ。ニュルンベルク市長のビンダーも、ハウザーが何年もの間光の入らない地下室で外部との接触が全くない孤独な状態で成長させられたという見解に至った。「彼は狂気でも愚かでもなかったが、すべての人間と社会の教育から強引に引きはなされ、野生児のように育てられた」とビンダーは述べている。
ボトルに詰められた手紙
ドイツとの国境近くのフランスの町カン(Kembs)。カスパーがニュルンベルクで発見される12年前の1816年9月、この町を流れるライン川で、手紙の入ったボトルが発見された。ボトルの手紙はラテン語で書かれてあり、次のような文面であった。
この手紙を読んでいる人へ。私はライン川沿いのラウフェンベルクの近くに監禁されている。
監禁場所は地下にある。
わたしは注意深く、残酷に看視されており、これ以上は書けない。
S.HANES SPRANCIO
わずか3行の短い手紙である。この手紙に書かれてある。ラウフェンブルク(Lauffenburg)という地名は存在する。手紙の地名とは綴りが異なり、《F》がひとつ少ないが、ラウフェンブルク(Laufenburg)という町がスイスとの国境に近いドイツ南端に存在する。
この署名の名前「ハーネス・スプランキオ」は、14文字のアルファベットで構成されているが、この不自然な響きの名前は、当初からアナグラムの可能性が指摘されていた。アルファベットの組み合わせ可能性は870億通りにも及び、意味を成す単語はごくわずかだ。1929年になり、その中からあるフレーズが発見された。
SEIN SOHN CASPAR
彼の息子カスパー
12年後に現れるカスパーの名前の綴りは「Kaspar」であるが、この手紙の綴りは「C」である。12年後に登場する少年の名前がカスパーであると知っている者には非常に魅力的な説である。しかし、不明な点も存在する。頭文字の《S.》は[署名入り]を意味する「Signature」の《S》であり、そもそも名前の一部にはなり得ないという説もあった。 いずれにしても、この手紙は学生のいたずらだろうと考えられ、すぐに人々の記憶から忘れ去られた。
カスパーの絵の才能
あまり知られていないことではあるが、カスパーは絵の描き方も習っており、卓越したアマチュア画家でもあった。カスパーが描いたとされる静止画が数点残されている。
カスパーの殺人未遂と謎の英国人
1829年10月17日、ダウマー教授のアパートでカスパーに殺人未遂事件が起こった。額を切られ、流血していたカスパーは彼に危害を加えた犯人が「黒人」がであったと証言した。カスパーは家へ入るところを襲われたと言ったが、現場に残された状況と照らし合わせるとカスパーの証言と食い違うのである。床に残った血痕から判断すると、玄関で暴漢に襲われたカスパーは、他の人が滞在していた家の上層階へ行き助けを求めるでもなく、まず2階へと逃げ、そしてなぜかまた1階へと戻ってきている。暴漢に襲われてパニック状態にあったにせよ、カスパーの行動には不可解な点があった。
この事件があった同じ日に、ニュルンベルクに一人の英国人が到着している。名前をフィリップ・ヘンリー・ロード・スタンホープと言った。彼は英国の外交官であり、諜報部員であった。スタンホープはカスパーを訪ね、高価な指輪や時計、洋服を与え、関係性を築いていった。二人はいつしか父親と息子のような関係になっていた。この頃、カスパーがスタンホープに書いた手紙が残っており、文末には「あなたの養子」(Dein herzlich liebenden Pflegersohn)という言葉が添えられている。スタンホープはカスパーにいずれ英国の自分の城に連れて行くと約束をしていた。1832年1月、スタンホープは旅立った。カスパーを正式な養子に迎えるため、まずアンスバッハへと連れていった。スタンホープはカスパーにすぐに英国に連れて行くと言っていたが、その約束が守られることはなかった。スタンホープは後にカスパーのことを「詐欺師」と呼んでいる。一体ふたりのあいだに何があったのか?
たった5年の自由
1832年2月、アンスバッハにひとり残されたカスパーは、アンスバッハ市に採用され、アンスバッハ裁判所の所長フォイエルバッハの預かるところとなった。
この年すでに20歳になっていたカスパーは、アンスバッハに住むヨハン・マイヤー(Johann Meyer)の世話を受けることとなった。1833年12月14日、カスパーはアンスバッハの宮廷公園の中庭にいたところを正体不明の男に刺されたのだ。カスパーは襲撃した男を「黒髪で黒い口ひげを生やした男」と説明した。他に目撃者はいなかった。ルートヴィヒ1世は、加害者を捕まえるために10,000ギルダーの報償金を懸けたが、犯人発見には至らなかった。負傷したカスパーは3日間生き長らえたが、1833年12月17日、刺傷が原因で短い人生を閉じた。
しかし、この死因に対しても疑いの目が向けられることとなる。1833年、12月19日、カスパーの検死が行われた。6名の検視官が立ち合い、カスパーの死因を調べた。刺し傷は深さ15センチにも及んだ。自殺か他殺か?警察当局は、カスパーの死因が「自殺する意図のない自傷行為」によるものであったとの見解を示した。つまり死ぬつもりはなかったが、自らを刃物で突き刺したところ、それが致命傷になったというのだ。
フォイエルバッハの仮説
カスパーハウザーの教師、フォイエルバッハは奇妙に思った。カスパーに対して、なぜ誰も捜査依頼を出さないのだろうか?自分の子供がある日突然いなくなる。これはどの親にとっても最大の悪夢ではないか。カスパーの両親が、子供の行方不明を届け出ない理由はひとつ。子供はすでに死んでいると思っているからだ。一人の子供を死んだものとして、存在を地球上から消し去ってしまう。そんなことができるのは貴族以外にないとフォイエルバッハは考えた。そこでフォイエルバッハは、カスパー・ハウザーの生誕年と推定される 1812 年に、どの貴族で子供が生まれ、行方不明になったか調査を開始した。 そして、膨大な調査の結果、彼はある大貴族に辿り着いた。バーデン家である。
カスパー・ハウザーに関する本の中で、フォイエルバッハは初めて、この少年が王家の出身である可能性があるという自身の説を表明した。伝えられるところによると、彼は 1832 年に高貴な貴族に宛てた手紙の中で、彼の理論をほのめかしていたという。フォイエルバッハは、1833 年にフランクフルト ・アム・ マインを旅行中に死亡している。専門家は死因が脳卒中であったと推測しているが、フォイエルバッハは自身の死の床で毒殺の可能性を疑っていた。結局、フォイエルバッハの明確な死因は現在まで判明していない。カスパーハウザーとバーデン家の繋がり、そのパンドラの箱を開けたフォイエルバッハもまた何者かに暗殺されたのだろうか?
カスパーとバーデン家のつながり
突然の不幸な死と謎めいた出生のために、カスパーハウザーについては悲しく陰惨な話が流布されることとなった。もっとも有名なものは、カスパーが1812年に生まれたバーデン大公の王位継承者で、赤ん坊の頃に別の赤ちゃんと入れ替えられたというものだ。
1812年9月29日、カールスルーエ宮殿にて、バーデン大公妃であるステファニーは夫であるバーデン大公、カール・フリードリッヒとの間にできた待望の男子を出産している。この子が健康に育てば、バーデン大公位継承者となることは確実だった。
しかし、ここにバーデン大公家に跡継ぎが生まれたことをよく思わない人物がいた。夫カール・フリードリッヒの愛人、ルイーゼ・カロリーネである。カールはこの愛人との間にも4人の子供を設けていた。ルイーゼ・カロリーネは考えた。もし夫とその前妻との間に男児が生まれなければ、自分の子供にバーデン大公位が巡ってくる。そう考えているうちに、息子をなんとしても大公にしたいという思いはますます強くなる。しかし、夫と正妻の間には男子が生まれてしまった。その子供を赤ん坊の遺体と取り換え、産褥で亡くなったことにすれば、バーデン本家の男系は途絶える。そう考えたルイーゼ・カロリーネの手の者が赤ん坊の取り換えを計画を実行したとしたら。
赤ん坊は取り換えられたのか?
結局、ステファニーが産んだ男児は死産する。あるいはそう見えるよう何者かに仕組まれる。
この説の生みの親は、アンスバッハ控訴裁判所の裁判長であるアンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハ(Anselm Ritter von Feuerbach)であった。1832年、フォイエルバッハは、カスパー・ハウザーが1812年に生まれたバーデンの正統な王位継承者であるという結論を下している。しかし、事はバーデン大公国に関わるデリケートな問題であり、フォイエルバッハ自身も自説が穿ったものであることを自覚していたのか、発表を差し控えている。この説は、20年後の1852年にフォイエルバッハの息子によって発表されている。
では、バーデン大公国の王位継承者が生まれて間もなく亡くなったというのは事実ではないのか?一度、1812年まで遡る必要がある。
1812年9月29日、カールスルーエ城で男児が誕生する。バーデン家にとって待望の世継ぎ誕生である。しかし誕生から数週間たった10月16日、幼児の体調は悪化し、医師も手の付けようがなかった。赤ん坊はそのまま死亡。死因は不明であった。遺体はその日のうちに歴代バーデン家の埋葬地となっているプォルツハイムの聖ミヒャエル教会へと運ばれた。ここには300年間、バーデン大公国を統治するツェーリング家が眠っている。洗礼は受けたが、名前を付けられる前に亡くなってしまったこの幼児もこの教会に埋葬された。
フォイエルバッハの説が正しければ、バーデン家の宮廷に近い人物のなかで、カスパーと取り換えられた赤ん坊が存在する。誕生して数週間で埋葬された子供がどこかにいたはずである。調査の結果、ヤン・エルンスト・ヤコブ・ブルッフマン(Jan Ernst Jakob Bruchmann)という子供が、カスパーと同時期にカールスルーエで誕生していたことが判明した。このヤンという名前の幼児の父親は、カールスルーエの宮廷で働いていた人物であり、ルイーゼ・カロリーネの為に働いていたと言われている。生まれた日にちは、9月26日。カスパーが誕生する3日前である。
しかし、バーデン大公家継承問題にからむ赤ん坊取り替え説に関してはいくつかの論理的矛盾がある。母親であったステファニーは1812年にわずが23歳であり、王位継承者を始め、まだ多くの子孫を残す可能性があった。実際、当時、ステファニーには2人の娘とアレクサンダーという息子がいた。アレクサンダーは2歳に満たずして他界してしまうが、ステファニーがその後もさらなる王位継承者を産む可能性は多分にあった。つまり、長男だけを別の赤ん坊と取り換えたとしても、バーデン大公位がルイーゼ・カロリーネの息子に回ってくる可能性は極めて低いのだ。
確かに、実際にはステファニーは二人目の男児アレクサンダーと死別した後は公位継承者を妊娠することはなかった。そして、1783年にステファニーがが死去すると、カール・フリードリッヒは本家に男児が誕生しなかった場合に、愛人であったカロリーネ・ルイーゼの子供が公位を継承できるよう、1787年11月24日、カロリーネ・ルイーゼと結婚している。これはバーデン大公家の血を絶やさないようにするための当然の処置であり、神聖ローマ皇帝フランツ2世にも承認され、特許状まで発行された。この処置によりカロリーネ・ルイーゼ自身には選帝侯妃などの称号は与えられなかったが、大公妃として相応しいホッホベルク伯爵夫人という名前が与えられた。結果、バーデン大公位は、カール・フリードリッヒとルイーゼ・カロリーネの息子であるレオポルトが継承している。
渦巻く疑惑
このいきさつを見て、市民はこう考えたのではないだろうか?身分の卑しい市井の女がバーデン大公を誘惑して、4人もの私生児を設けた。運よく本家の男系が途絶えた為、女は貴賤結婚にもかかわらず、ホッホベルクなる高貴な名前を与えらた。そして息子がまんまと大公位を継承。自らは大公の母に収まった。カロリーネ・ルイーゼにとっては幸運が重なったことで、市民はカロリーネが仕組んだに違いないと考えたのではないだろうか?そして、裁判長であったフォイエルバッハという権威が、この説に信憑性を与える。市民はますます「悪女」カロリーネの悪だくみを疑う。
市民がこういったゴシップに飛びつくにはもう一つの理由があった。バーデン大公カール・フリードリッヒがカロリーネ・ルイーゼと再婚したのは公が59歳、カロリーネはわずか19歳の時であった。40歳の歳の差に加え、カロリーネは市井の娘であり、当時でいう貴賤結婚であった。これだけでも十分なゴシップになりそうだがまだ続きがある。二人の間に最初の子供レオポルトが生まれた時、公はすでに62歳であった。そこからさらに4人もの子供が生まれた。5人の子供のうち一人は早逝したが、4人が成人を迎えている。子供たちの父親は本当に還暦を過ぎたカール・フリードリッヒだったのだろうか?カロリーネ・ルイーゼは密かに別の男と逢引きを重ね、愛人の子供を宿したのではないか?そしてどうやらカロリーネ・ルイーゼには愛人がいた。不倫相手と目されていたのは、なんと夫の息子、カール・ルートヴィッヒである。つまり、カール・ルートヴィッヒは義母と関係を持ち、父親に代わり子供を産ませたというのである。これが真実であればバーデン大公家を揺るがす一大スキャンダルである。還暦を超えた大公の生殖能力は知る由もないが、娯楽の少ない時代、いかにも市民のゴシップの種となりそうな話である。
次々と死ぬ皇位継承者たち
しかも、カロリーネ・ルイーゼに子供が生まれてから、バーデン公とその後継者たちが次々と謎の死を遂げている。カロリーネ・ルイーゼの長男、レオポルトに公位継承権が回ってくるまでに実に5人ものバーデン大公が亡くなっているのである。レオポルトが生まれたのは1790年。その11年後の1801年に、カロリーネ・ルイーゼの愛人と目されていたカール・ルートヴィッヒが亡くなる。そして、その10年後に夫のカール・フリードリッヒが死去。次に亡くなったのは、カスパー・ハウザーではないかと噂される男児。5年後にその弟、アレキサンダーが早逝。そして、最後に愛人と噂されたカール・ルートヴィッヒの息子、カールが1818年に死亡。第一子レオポルトが生まれてから28年の間に5名の大公と後継者たちが命を落とし、最終的に愛息レオポルトがバーデン大公家を継いだである。
これでは疑いの目が向けられるのは無理もないことであった。カロリーネ・ルイーゼを悪女に仕立て上げるだけの「疑惑」は十分すぎるほど存在していたのである。もちろん、この「悪だくみ」が実行可能であったかどうかは別の問題である。自身の息子をバーデン大公とするためにカロリーネ・ルイーゼがあらゆる暗殺計画を仕組み、28年もの歳月をかけてこの大胆すぎる計画を実行に移し、そのすべてにまんまと成功した。こんなことが可能だろうか?これが真実であれば、カロリーネ・ルイーゼは尋常ではない忍耐力と驚くべき計画遂行能力を持ち、そして何より大変な幸運の持ち主であったと言わざるをえない。
もうひとつの疑問点は、ホッホベルク伯爵夫人となったカロリーネ・ルイーゼが息子の王位継承に関する秘密を永遠に闇に葬りたいのなら、なぜ取り換えた赤ん坊を殺害せず、生かし続けたのだろうか?さらに不可解なのは、16年間も閉じ込めておいたカスパーをなぜ突如開放したのだろうか?さすがに幼児の殺害をためらった為だとしても、子供のうちに養子に出すなど、もっと目立たない方法がいくらでもありそうである。その方がよほど計画漏洩の危険性が少ない。つまりホッホベルク伯夫人が事件の首謀者であった場合、その犯行動機は極めて論理性に欠け、カスパーの解放にいたってはデメリットしかないのである。ましてや、解放後に有名人となり、人々の注目を集めていたカスパーを暗殺する点に至っては無謀でしかなく、これが同一犯(同一グループ)によって実行された計画だとすれば大いに一貫性に欠け、場当たり的な犯行と言わざるを得ない。
カスパーの見た夢
後にカスパーの法定後見人が語ったところによると、カスパーは発見されてから1年が経とうという1829年頃、頻繁に幼少期の頃の夢を見ている。玄関口のうえに紋章が描かれている建物に入っていく夢だという。夢から覚めたカスパーは、その紋章を書き残している。
ドイツの南端、スイスのバーゼルに近いライン川沿いの町に、ボイゲン城という城がある。この城は1806年からバーデン伯爵の所有であり、時のバーデン大公カール・フリードリッヒからルイーゼ・カロリーネ・ホッホベルク夫人に贈られたものであった。この城の庭にあるティーハウスの入り口には紋章が飾られてあるが、これはカスパーが描いた夢の中の紋章と似ていないだろうか?
この城の入り口に記された紋章は、以下のような紋章である。右手にはライオン(のような動物)、中央に交差した刀と、杖が見て取れる。左手には、模様と、頭上にはカスパーの描いた絵との類似点は見て取れる。これはカスパーの遠い記憶なのか、あるいは単なる夢なのか?
2002年8月にドイツで放送されたテレビシリーズ「TerraX」では、カスパーハウザーを特集し、カスパーが幽閉されていた場所の特定を試みた。この番組では、カスパーが捕らえられていたとされるボイゲン城を調査している。ボイゲン城には、地下ではないが、壁に窓とは呼べないようなわずかな縦長の隙間のあるスペースが存在する。このスペースには、建物内からアクセスができないという。このスペースには長年にわたり誰も入っていなかった。建物が重要建造物の保存対象となっていたが、内部の壁を破壊し、隠されたスペースに入る為の許可が下りた。
そして壁には信じがたいことだが、馬のような動物を描いた落書きがあった。これはカスパーが描いたものだろうか?
壁に描かれた馬と思われる動物は、赤いチョークで描かれており、縦6㎝、横15㎝の大きさがある。
カスパーはどこに捕らえられていたのか?
専門家の推測によると、カールスルーエの宮殿で生まれたカスパーは、まずこのボイゲン城へと連れてこられ、ここで4年の歳月を過ごした。カスパーの行動の自由については諸説あり、中庭で遊ぶことができたという説もある。(その為、敷地内にあるティーハウスの紋章を度々目撃したことになる。)その後、オーバープファルツのピルザッハという町に連れてこられ、その町のピルザッハ城(Schloss Pilsach)で16歳まで過ごしたとみられる。
このピルザッハ城は所有者が何度か変わっており、現在は建築家が所有している。その建築家の話では、1982年に城内の改修工事を行っていたところ、階段の下にひとが入れるわずかな隙間が発見されたという。部屋の周りの壁は2メートルの厚さがあり、この部屋へのアクセスは2階の階段から下へ降りるのである。部屋の広さは、縦4メートル30センチ、幅2メートル50センチ、高さ1メートル65センチである。この部屋にあった唯一の窓は、鉄のおりのようなものでほとんど閉じられている。
その空間を探索していたところ、木製の馬の模型が出て来たというのだ。この馬のおもちゃは後ろ足が欠損しており、前足だけの状態になっている。ただし、発見されたこのおもちゃがカスパーの時代のものであったかどうかの詳しい調査は行われていない。
専門家は、カスパーがこの城に6歳から16歳までの間幽閉されていたと見ている。ある日、この部屋に男がやってきて、カスパーに自分の名前の書き方を教えた。そしてカスパーを外へと連れ出し、アンスバッハへと導いたのである。
DNA鑑定の結果
そして、謎は一向に解決されないまま140年の歳月が流れる。この年月とその間の科学技術の進歩が新たな検証方法を可能にしていた。DNA鑑定である。カスパーが殺害された日に身に着けていたズボンには血痕が残っていたが、そのズボンを含む複数の衣類が博物館に保管されていたのだ。
1996年、ドイツの雑誌「シュピーゲル」(Spiegel)の主導で、カスパーのDNA鑑定が行われることになった。法医学の医師たちはカスパーの衣服から遺伝子を取り出し、それをバーデン王家の子孫のものと比較した。検査は2か所の異なる研究所で実施された。
DNA鑑定の結果は、「不一致」であった。
両者のDNAには6か所の相違がみられた。1996年11月25日、シュピーゲル誌は会見を行い、カスパーとバーデン家の間に繋がりがないことを宣言した。
これにより、カスパーとバーデン大公家との関わりが完全に否定されたかに思われた。しかし後に、カスパーのズボンに付着していた血痕がそもそもカスパーのものではなかったことが判明したのだ。カスパーの衣服を保管していた博物館のスタッフが衣服に付着した血液の跡を劇的に見せるため、衣服に全く別の血液を加えていたのだ。
バーデン大公家の陰謀説を立証するには、カスパー・ハウザーの衣服から採取したDNAデータではなく、彼と交換されたと思われる赤ん坊のDNAデータを確認する方法もある。この赤ん坊のDNAがバーデン家のDNAと一致しなければ、赤ん坊が取り換えられたという説にも俄然信憑性が出てくる。そして、その赤ん坊の遺骨はまだプフォルツハイムにあるバーデン家の地下霊廟に安置されているのだ。DNA鑑定への期待は一気に高まった。しかしバーデン大公家は安らかに眠る死者への敬意を尊重するとしてDNA鑑定の実施を拒否したのだ。またバーデン大公家は、同家に伝わる文書の公開も拒否しており、関連する文献の調査も行き詰まりを見せていた。
では、埋葬されたカスパー・ハウザーの骨からDNAを採取し、バーデン家のものと比較する方法はどうか?この案も考えられたが、実現されなかった。 カスパーの墓があるアンスバッハの墓地は1945年に爆撃で破壊されており、墓石の下に埋葬されている骨がカスパー本人のものだとは断定できないのである。
1996年の最初のDNAテストから6年後、2002年になってもう一度、真相解明のチャンスが巡ってくる。この6年間の歳月は、DNA検査も進歩しており、髪や汗のサンプルからもDNA解析が可能となっていた。今回は、ベルント・ブリンクマン教授(Prof. Dr. Bernd Brinkmann)率いるミュンスターの法医学研究所(Institut für Rechtmedizin Münster)が検査を行った。サンプルとして使用するカスパーの髪の毛には、フォイエルバッハが所有していたサンプルが用いられた。研究チームはカスパーが愛用していた帽子、ズボン、髪の毛を用い、再度DNAテストを行った。
このDNA検査への参加に合意したのは、カスパーの母親と考えられるステファニー・ド・ボアルネの子孫であるアストリット・フォン・メディンガー(Astrid von Medinger)である。ステファニーは5人の子供を産んでおり、うちカスパーと考えられる男児と、アレキサンダーという名の男児を失っているが、他に女児が3名おり、うち2名の家系は現在まで続いているのだ。
テスト結果は関係者を驚かせた。遺伝子情報はバーデン家直系の子孫のものとほぼ一致したのだ。
だが、この検査結果をもってしても真相究明とはならなかった。前回の血液による鑑定同様、帽子に付着した髪の毛が間違いなくカスパーのものであるとは断定できないからだ。科学的な鑑定手法を用いても、カスパーがバーデン大公家の王位継承者であったという決定的な決め手にはなることはなかった。
消えた棺
カスパーと交換されたと思われる赤ん坊のDNAデータを確認する方法は、赤ん坊の遺骨がプフォルツハイムにあるバーデン家の地下霊廟に安置されているにもかかわらず、バーデン大公家が死者への敬意を尊重したいという理由で、実行不可能になったことはすでに述べた。しかし、最後のDNA鑑定から10年が経過した2012年、奇妙な出来事が起こった。
カスパーの生誕200年となる2012年、カールスルーエの弁護士で法史家のヴィンフリード・クライン(Winfried Klein)という人物が、フランクフルター・アルゲマイネ新聞に記事を寄稿し、プフォルツハイムにあるバーデン家の地下霊廟とそこに納められている棺はバーデン家所有のものではなく、バーデン=ヴュルテンベルク州の所有物だと主張した。つまり、名前のない埋葬された赤ん坊の出自をDNA分析によって解明する試みを実施するか否かは、バーデン大公家ではなく、州が決定することだと論じたのだ。
棺の所有権がどこに属するのかについてはこの後も様々な議論が続いたが、2012年6月、州政府は、この棺は1983年以来、すでに行方不明になっていると発表した。 同じく幼児として亡くなったアレクサンダー王子の棺も同様に所在不明となったと発表された。 州は「二つの棺が紛失したことについては把握しているが、それ以外はわからない」と述べている。
しかし、シュトゥットガルトで出版社を営むヨハネス・マイヤーは、棺が紛失したとされる1983年の翌年、1984年5月25日に、地下霊廟で王子の棺の寸法を測定したと証言しており、州政府の発表と食い違っている。これは一体どういうことなのか?もちろん、棺がひとりでに消えたというオカルト的な話ではない。カスパーがバーデン王位継承者であると確信している人々にとっては、誰が棺を隠したのかは明らかだった。あらゆる手段を講じてこの物語を過去に葬りさろうと動いている人物が存在しているのだ。カスパーの出自の謎が解明されることを望まない人物が・・・
生き続ける伝説
多くの謎が未解決であるために、カスパー・ハウザーが現在に至るまで多くの関心を引き付けているのもまた事実であり、彼に関する著作や演劇、銅像を挙げれば枚挙にいとまがない。
カスパー・ハウザーが殺害されたとされるアンスバッハの公園にはカスパーの記念碑が建てられたほか、アンスバッハを中心にカスパーの銅像が建てられている。またカスパーが命を落としたアンスバッハでは、1998年以降、2年に一度カスパー・ハウザーをテーマに据えた《カスパーハウザーフェスティバル》(Kaspar-Hauser-Festspiele)を開催している。1974年には西ドイツ製作で映画も作られた。この映画はドイツ内外で高い評価を得、第28回カンヌ国際映画祭では監督のヴェルナー・ヘルツォークが審査員特別グランプリを受賞した。
地下室で育てられた野生児なのか、全ては彼の狂言だったのか?バーデン大公家の後継者だったのか?一体誰が何の目的で殺害したのか?数々の謎を残してカスパー・ハウザーはこの世を去り、真相は現在も闇の中である。
参考:
Stadt Ansbach, “Kasper Hauser”, https://www.ansbach.de/Freizeit-G%C3%A4ste/Kunst-Kultur/Festspiele/Kaspar-Hauser-Festspiele/index.php?object=tx%7c2595.12741.1&NavID=2595.104&La=1
Welt.de, “Das schaurige Geheimnis des Kaspar Hauser”, Jan von Flacken, 22.12.2010, https://www.welt.de/kultur/history/article11072984/Das-schaurige-Geheimnis-des-Kaspar-Hauser.html
Web.de, “Kaspar Hauser: Die unglaubliche und rätselhafte Geschichte des berühmten Findelkindes”, Claudia Frickel, 10.08.2016, https://web.de/magazine/wissen/mystery/kaspar-hauser-unglaubliche-raetselhafte-geschichte-beruehmten-findelkindes-31796440
Welt.de, “Mysterium um Kaspar Hauser und den Kindersarg”, Claudia Becker, 13.09.2012,https://www.welt.de/vermischtes/article109188612/Mysterium-um-Kaspar-Hauser-und-den-Kindersarg.html
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