引き裂かれた公国

デュッセルドルフ

ライン川の流れは、デュッセルドルフの街を静かに縁取っている。川沿いの遊歩道には人々が行き交い、対岸の風景は淡く霞んで見える。旧市街へ足を向ければ、石畳と古い建物が続き、どこか陽気でありながらも、歴史の層を感じさせる空気が漂っている。

その中心にあったデュッセルドルフ城はいまは失われているが、この街はかつて、ヨーロッパの運命を左右しかねない争いの舞台であった。静かな風景の背後には、ひとつの継承問題から始まった、大きな歴史のうねりが潜んでいる。

17世紀初頭、ユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公国の宮廷が置かれていたデュッセルドルフ。

公ヨハン・ヴィルヘルムはその城内ですでに病床にあった。公は精神を病んでおり、幻覚に取り憑かれていた。城に火を放つと叫びながらデュッセルドルフ城を走り回るその姿は、もはや統治者のそれではなかった。

最初の妻ヤコベ・フォン・バーデンは、夫に政治能力がないと見て自ら政務を担おうとしたが、政敵によって投獄され、獄中で非業の死を遂げた。二人目の妻は夫の回復を信じ続けたが、その願いが叶うことはなかった。

そして1609年3月25日、ヨハン・ヴィルヘルムはデュッセルドルフ城で息を引き取る。嫡子はなく、ここにユーリッヒ=クレーフェ=ベルク公国の男系は断絶した。

では、この広大な領土は誰の手に渡るのか――その行方は、ヨーロッパ中の関心を集めることとなる。

ヨハン・ヴィルヘルムには二人の姉がいた。長姉マリー・エレオノーレはプロイセン公アルブレヒト・フリードリッヒに嫁ぎ、その娘アンナはブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントと結婚していた。一方、次姉アンナはプァルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィッヒに嫁ぎ、息子ヴォルフガング・ヴィルヘルムをもうけている。

こうして、ブランデンブルク選帝侯家とプァルツ=ノイブルク公家が、この遺領を巡って対立することとなった。これが《ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争》(Jülich-Klevische Erbfolgestreit)である。

対象となった領土は、ユーリヒ、クレーフェ、ベルクの各公国に加え、マーク伯領、ラーヴェンスベルク伯領からなる広大なものだった。その規模、戦略的価値、そしてカトリックとプロテスタントが交錯する宗教的状況ゆえに、この地域は常に列強の注目を集めていた。

ヨハン・ヴィルヘルムの死後、ヨハン・ジギスムントとフィリップ・ルートヴィッヒはそれぞれ継承権を主張し、後者は息子ヴォルフガング・ヴィルヘルムを派遣して現地統治に当たらせた。しかし、この継承争いに名乗りを上げたのは彼らだけではない。

三人の父ヴィルヘルム5世は、かつて神聖ローマ皇帝カール5世と対峙した「富裕公」として知られる人物である。彼は一時フランスと結びナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚するも、のちにこれを解消し、皇帝フェルディナント1世の娘マリア・フォン・エスターライヒと再婚した。つまり、この家系にはハプスブルク家の血が流れていたのである。

この血縁を背景に、ハプスブルク家も介入する。オーストリア大公レオポルトは皇帝ルドルフを動かし、ユーリッヒ要塞を占領して臨時政府を樹立した。一方でヨハン・ジギスムントとヴォルフガング・ヴィルヘルムは、フランス、イギリス、オランダの支持を取り付ける。

対立が激化するなか、1609年6月10日のドルトムント条約によって、両者は領土の共同統治で一旦合意した。外部勢力の介入を防ぐための妥協であった。

しかし、この体制は長く続かない。

ヴォルフガング・ヴィルヘルムは当初ルター派であったが、カトリックであるヴィッテルスバッハ家のマグダレーネとの結婚を機に改宗を決意する。1614年5月15日、デュッセルドルフの聖ランベルトゥス教会(St.Lambertus)でカトリックへの改宗を宣言し、同時に政治的立場もプロテスタントの《ウニオン》(Union)からカトリックの《リーガ》(Liega)へと移した。

一方のヨハン・ジギスムントもまた、ルター派からカルヴァン派へと転じていた。1613年のクリスマス、ベルリン大聖堂での改宗は、当時の政治的環境や宮廷内部の影響を色濃く反映したものだった。

こうして両者の宗派は決定的に分かれ、共同統治は事実上不可能となる。

1613年、両者はデュッセルドルフ城で会談を行うが、議論は激化し、ついにヨハン・ジギスムントがヴォルフガング・ヴィルヘルムに平手打ちを浴びせるという事態に至った。激怒したヴォルフガング・ヴィルヘルムは席を立ち、交渉は決裂する。

それでも争いの長期化は双方にとって不利益であった。最終的に1614年11月12日のクサンテン条約により、領土分割が決定される。ヨハン・ジギスムントはクレーフェ公国、マーク伯領、ラーヴェンスベルク伯領を、ヴォルフガング・ヴィルヘルムはユーリッヒとベルクを統治することとなった。

だがこの体制も安定したとは言い難く、宗派の違いを背景に各地で緊張が続いた。それでも、1609年から1614年まで続いた《ユーリッヒ=クレーフェ継承戦争》はここに終結する。

しかしその影響は深く、ライン下流域や北西ドイツは荒廃し、やがて三十年戦争へと連なる火種の一つとなっていく。ブランデンブルクでは後に「大選帝侯」と呼ばれるフリードリッヒ・ヴィルヘルムが登場する。

プァルツ=ノイブルク家も後の《プァルツ継承戦争/アウグスブルク同盟戦争》へとつながる運命をたどる。

かつて「富裕公」と呼ばれたヴィルヘルム5世の広大な領土は、こうして分断され、二度と元の姿に戻ることはなかった。

現在、デュッセルドルフの旧市街では、夕暮れが近づくにつれて石畳がわずかに湿り、通りにはビールのグラスを傾ける人々のざわめきが満ちていく。笑い声やグラスの触れ合う音が、狭い路地に反響し、やがてラインの方へと流れていく。

その賑わいのすぐそばを、あの川は変わらぬ速度で流れている。かつてこの地で争われた継承と対立、宗派の衝突や権力の思惑――そうしたものをすべて呑み込みながら、何事もなかったかのように。

橋の上から流れを見下ろすと、水面は鈍く光り、ゆっくりではあるが確かな力で下流へと引き込んでいく。その動きは、この街が背負ってきた歴史そのもののようでもある。

いま目の前にあるのは、活気ある都市の一瞬の姿に過ぎない。だがその足元には、分断され、争われ、そして塗り替えられてきた領土の記憶が折り重なっている。ラインの流れに目を凝らすほどに、この街の時間の深さが、静かに、しかし確かに立ち上がってくるのだった。

参考:

dorsten-transparent.de, “Kriege I: Dorsten war wegen der strategischen Lage in viele Kampfhandlungen verstrickt. Die Leidtragenden waren immer die Bewohner – 14. bis 17. Jahrhundert”, 14. Juli 2014, http://www.dorsten-transparent.de/2014/07/kriege-i-dorsten-war-wegen-der-strategischen-lage-in-viele-kampfhandlungen-verstrickt-die-leidtragenden-waren-immer-die-bewohner-14-bis-17-jahrhundert/

duesseldorf.de, “Der Jülich-Klevische Erbfolgekrieg 1609 – 1614”, https://www.duesseldorf.de/stadtarchiv/stadtgeschichte/aufsaetze/berg-genealogie/juelich-klevischer-erbfolgekrieg.html

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