ツォンス(Zons)はデュッセルドルフの南20キロほどに位置する古い町で、市としての特許状が与えられたのは1373年に遡る中世の町だ。現在はドルマーゲン市(Dormagen)の一部となっており、14世紀の市壁や600年前の風車などが残る街並みはドイツ中世都市の面影を色濃く残している。今から200年前、ライン河畔のこの静かな町で、ある「事件」が起こり、町は大騒動になったのだった。
19世紀、ツォンスはここ数十年で最悪の干ばつに見舞われた。さらに、ネズミを介して発生した疫病による被害は壊滅的だった。食物の種は数時間以内に喰いつくされ、収穫はほとんどが駄目になった。この被害と同時期の1822年3月、当時79歳だったローマ教皇ピウス7世(Pius VII.)が重病となり、カトリック信者は立て続けに起こる不幸に心を痛めていた。そこで、ツォンスのカトリック信者たちは、教皇の回復のために祈りを捧げることにし、ツォンス市民もネズミによる疫病を回避するため、8日間の祈りを捧げることにした。
祈りを捧げる際、マリア像が掲げられることとなった。このマリア像は、遡ること10年ほど前の1813年、牧師のアダム・マウルス・アンケンブラント(Adam Maurus Ankenbrandt)という人物が自身の教区に与えたものだった。赤ん坊のイエスを抱いた聖母マリアの像は、頭と手は蝋で出来ており、銀の王冠と絹のローブで飾られていた。柔和な顔をした聖母マリアは淡いブルーの衣装を着ており、「青いマリア」を意味する《ブラウエ・マドンナ》と呼ばれていた。
ブルーのドレスを着たマリア像は珍しいものではなく、絵画などでもよく見る意匠だ。ブルーは愛や信頼を表す色として使われている。欧州では、現在でも結婚式で《サムシング・フォー》(something four)といって、花嫁が四つのものを身に着けることで幸福が訪れるとされている。それは、1.) 新しいもの、2.) 古いもの、3.) 借りたもの、4.) 青いもの、の4つだ。「古いもの」は、邪悪な目から夫婦を守り、「新しいもの」は希望を与える。幸せな夫婦や親しい友人から「借りたもの」は夫婦に幸福を与え、「青いもの」は、愛や忠誠、信頼を表す。このようにブルーは非常にポジティブな文脈で使われることが多い。
ブルーは空や海を表す色だが、聖母マリアはこの両方に表されることが多い。また、この色は見る者の心を落ち着かせ、身に着ける者が常人を超越したような、どこか高貴な印象も与える。現代でもディズニー映画に登場するプリンセスの多くがブルーを基調としたドレスを身に着けているのも、こういった理由による。精神面における話だけでなく、特にイタリア絵画でマリアに青が使われた理由は、ラピズラズリという青い石から採られた青い絵の具は、当時、金と同等かそれよりも高価な色彩であり、その色を使用する対象は聖母マリアを表す際に限定されていたという理由もある。いずれにせよ、ブルーは聖母マリアと非常に関係の深い色だ。
ツォンスのブルーマドンナの像は、当初、古い教会の祭壇に飾られていたが、町をあげての祈祷に際して、教会の別の場所に移された。そして、祈りを始めてから3日目に奇妙なことが起こった。
ペトラ・ジーベナッカー(Petra Siebenacker)という未亡人の女性が、ひどい皮膚病に苦しんでいる息子の回復のために聖母に祈りを捧げていた。すると突如、ペトラはマリア像の王冠に不思議な光が現れたのを目撃する。 ペトラはその日に見た不思議な光景のことを考えながら、家へと帰った。すると翌日、ペトラの息子の身に信じられないことが起こっていた。あれほど酷く、手の施しようのなかった息子の皮膚病が治っていたのだ。ペトラは驚いて、何度も自分の目を疑った。しかし、信じられない出来事はそれだけではなかった。しばらくすると、町に流行っていた疫病が沈静化したのだ。
この出来事の噂は町中に広がった。毎日、大勢の巡礼者がツォンスにやって来た。連日連夜、青いマリア像を一目見よう、祈りを捧げようとする人々の行列が出来た。ツォンスが属するノイスの地区管理者さえも、地元の秩序を維持するためにもこの事態に介入せざるを得なくなった。彼らはこの出来事の調査のために、ツォンスに委員会を送った。専門家は、未亡人が見た光というのは、ろうそくからの光が王冠に反射しただけであり、少年の病気が治ったのはおそらく偶然の一致であろうという結論に達した。
像は教会から運びだされ、一旦、屋根裏部屋に保管されることになった。マリア像を崇拝しようと努力していたツォンスの牧師も、アーヘン近くのヴァイデンへと移動させられてしまう。像は取り除かれたにもにもかかわらず、マリアへの信仰は終わることがなかった。この出来事から35年後、ケルン大司教ヨハネス・フォン・ガイセル(Johannes von Geissel)は、マリア像を教会へと戻す決定を行ない、身廊の左側にマリア像の為の祭壇を置くことも決定した。この決定にツォンスの市民は歓喜した。 奇跡を起こしたブルーマドンナが35年ぶりにツォンスに戻ってきたのである。そして75年後の1932年、マリア像は、1878年に建てられたライントア(Rheintor)近くの教会の礼拝堂へと運ばれたのであった。
奇跡が起こったとされるこのツォンスの集会のように、疫病を治める為にマリア像に祈るというのはカトリックではよく行われることであり、これはローマ時代に遡る。590年、ローマをペストが襲ったとき、当時の教皇グレゴリウス1世は、聖母マリアの像を掲げながらローマの町を信者とともに行進した。すると天空から天使が舞い降り、城の上に降り立ったかと思うと、血に濡れた剣を鞘に収めたのだった。この後、疫病は終焉し、ローマの町はペストの脅威から解放された。この時に掲げられたマリア像は、ローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂に納められている。そして、天使が舞い降りたという城は、以降「聖天使城」と呼ばれるようになり、これが現在のサンタンジェロ城だ。16世紀にこの出来事に因んで、剣を鞘に納めようとする天使の像が城の上に建てられた。こうして聖母マリアは空気を浄化し、大気の不浄を消し去ると広く信じられるようになったのだ。
このツォンスの青いマリア像に関わらず、聖像が奇跡を起こしたという話はドイツにも多く伝えられている。ヴィース教会に伝わる涙を流すキリスト像の話は特に有名だ。
ブルーマドンナが起こした奇跡とそれに熱狂したツォンス市民。小さなツォンスの町に一大騒動を起こした奇跡も、その目撃から100年以上が経過し、第二次世界大戦が終結した頃には、この出来事は人々の記憶からほぼ消えてしまったという。しかし現在もこのブルーのマリア像は、「マリア・フォン・デン・エンゲルン」(Maria von den Engeln)という礼拝堂に納められており、望む人は誰でも祈りを捧げることができる。
参考:
rp-online.de, “Die „Blaue Madonna“ von Zons”, 19. Juni 2007, Chris Stoffels, https://rp-online.de/nrw/staedte/dormagen/die-blaue-madonna-von-zons_aid-11215413
zons-geschichte.de, “Wundermadonna”, http://zons-geschichte.de/zonswiki/index.php?title=Wundermadonna#Die_Folgen_der_Untersuchung
aleteia.org, “How the Church’s Easter prayer to Mary brought the end of the plague”, Kathleen N. Hattrup, 04/14/20, https://aleteia.org/2020/04/14/how-the-churchs-easter-prayer-to-mary-brought-the-end-of-the-plague/
コメント