ヴェルフェン家唯一の皇帝

ブラウンシュヴァイク 

ヴラウンシュヴァイク大聖堂にあるこの像は、ハインリッヒ獅子王の息子、神聖ローマ皇帝となったオットー4世である。これまでシュタウフェン家の影に隠れていたヴェルフェン家が皇帝位を得るという一族の夢を実現させた人物である。オットー4世は、ハインリッヒ3世とイングランドから来たマティルダの息子である。イングランドの叔父のリチャード獅子心王の宮廷で育ち、教育と寵愛を受けたオットーは、フィリップ・フォン・シュヴァーベンの対立王に選ばれ、帝国の王冠を授けられた唯一のヴェルフェン家であった。何世代にもわたるヴェルフェン家とシュタウフェン家の闘争は、ドイツ中世の最もエキサイティングな物語の1つである。

幼少時代

公爵の三男として、最初はあまり自身の将来に期待することができなかった。父の相続のほとんどは兄ハインリッヒが受け取ることとなった。オットーはわずかにハルデンスレーベン(Haldensleben)を受け取っただけであった。

しかし、ヴェルフェン家の末裔の人生は大きく変わることとなる。運命的な出来事は、バイエルン公とザクセン公を兼ねる彼の父、獅子王ことハインリヒ3世が、皇帝フリードリヒバルバロッサの寵愛を失ったときに始まった。ハインリッヒはすべての称号と領土を剥奪され、彼はイングランドの宮廷へと亡命した。

オットーは叔父のリチャード・ライオンハートのお気に入りの甥となった。プランタジネット朝の宮廷は、当時のヨーロッパで最も文化的に優れた宮廷の1つであった。オットーはそこで騎士としての教育を受け、とりわけミンネザングについて学んだという。父親が家族と一緒にドイツに戻った後もオットーはイングランドに残り、親戚と一緒に暮らした。

子供のいなかったリチャード1世はオットーにヨーク伯爵領を与えており、これは英国王位継承の準備として解釈されている。しかし、オットーは英国王となることはなく、スコットランドのマルガータ王女(Margaretha von Schottland)との結婚計画もあったが実現しなかった。その後、オットーは祖母からアキテーヌ公国とも関係の深いポワトウ(Poitou)伯爵領を封土されており、そのフランスではフランス国王フィリップ2世とリチャード1世との紛争に参加し成功を収めている。

ローマ王、そして皇帝へ

オットーの人生の次のターニングポイントは1198年に起こる。ケルン大司教アドルフと少数の諸侯の扇動で、彼はリチャードライオンハートとケルンの商人の支援を受けて予期せずローマ王(ドイツ王)に選出されたのだ。しかし、数か月前には、シュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンも大多数の諸侯によって王に選出される。対立王の擁立である。次の10年間、ヴェルフェン家とシュタウフェン家は帝国の権力をめぐって激しく争うこととなる。シュタウフェン家がついに勝ち、オットーの敗北は決まったように見えたが、事実上、皇帝となることが決まったフィリップは、バイエルン宮中伯、オットー8世・フォン・ヴィッテルスバッハ(Otto von Wittelsbach)に暗殺されてしまう。

こうして、オットー4世はすべての諸侯に王として認められ、1209年には教皇インノケンティウス3世に認められた。そして、ついに神聖ローマ帝国の皇帝への戴冠を果たしたのだった。

教皇との対立と破門

しかし、平和は長くは続かなかった。オットーはイタリア政策を重視し、あろうことか自身を皇帝に推してくれた教皇のお膝元であるシチリア両王国に攻め込んだのであった。恩を仇で返された形となった教皇インノケンティウス3世は怒り心頭に発し、1211年にオットーを破門。ここから皇帝と教皇はますます対立を深めることとなる。

こうしてドイツ諸侯たちもオットーを見限り、オットーの廃位を決定。帝国の諸侯たちの抵抗は、1212年にオットーの対立王としてフィリップ・フォン・シュヴァーベンの甥であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の選挙へとつながった。帝国全土を巻き込む新たな権力闘争が始まったのだった。

この時代、オットーの叔父、イングランドの獅子心王はすでに戦死しており、弟のジョン(欠地王)が王位を継いでいた。ジョンにはリチャードのようなカリスマ性も戦闘における勇敢さも欠けていたが、オットーにとっては経済面で援助を継続してくれた支援者であった。フランスはオットー4世の対立王であったシュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンと同盟を組んでいたが、フィリップが暗殺された後は、フィリップの甥であるフリードリッヒ2世の皇帝就任を支持していた。英国とヴェルフェン家による同盟に対し、フランスとシュタウフェン家による同盟という対立構造が出来上がっていた。

ブーヴィーヌの戦い

オットーはフリードリッヒ2世がフランスのフィリップ2世と同盟を結んだことを知るに及び、この同盟に対して戦いを挑み、勝利することで帝国内での権威を回復しようと考えた。そして、フランスを打ち負かすことは、同国と深刻な領土争いを演じている叔父であり、自身の支持者である英国王ジョンの手助けにもなると考えたのであった。オットー4世はこの戦いに大きな野望を抱いており、戦闘でフィリップ2世を戦死させ、カペー朝を終焉させた暁には、フランス領土を同盟相手である諸侯に分配することまで考えていた。

1214年7月27日、ベルギーと国境を接するフランス北部の町、リール(Lille)近郊のブーヴィーヌにおいて、オットー軍とフィリップ軍は相まみえた。オットー軍にはブラバント公、リンブルフ公、ロレーヌ公などライン川左岸の領主に加え、ザクセンの諸侯も参加していた。

オットーはこの戦いに考え抜かれた戦略を持って挑んだとも、勝利を急ぎすぎたとも言われるが、結果として大敗を喫してしまう。フランス軍は粘り強くオットー軍に対峙し、戦闘を有利に進めた。戦闘は熾烈を極めたが、オットーは自陣の敗戦が濃厚となりつつある状況を認めざるをえなかった。オットーは戦闘経験が豊富であったが、現状では敵軍に捕らえられるリスクもあった。こういった戦況を判断し、オットーは戦場を離脱することを決めた。戦闘中に一度落馬したオットーは、別の馬に乗り換え戦線を離脱。大将のオットーが退却した後もオットー軍の諸侯は戦い続けたが、勝敗はすでに決していた。

双頭の鷲をあしらった帝国旗はフランス軍に奪われ、フィリップ2世は後日、この旗をフリードリッヒ2世に贈っている。この戦いにおけるオットー軍の敗戦により、英国王ジョンはイングランドがフランスに持っていた土地を失っただけでなく、1215年にはマグナカルタへの署名を余儀なくされ、王権も大幅に制限されることになった。その年の5月、ジョンはオットーに対する財政的な支援を停止した。これに対して、勝利したフランス側は神聖ローマ帝国と英国の脅威を退けただけでなく、フランスの領土を倍増させた。同時代の人々は、フィリップをローマ皇帝の初代皇帝になぞらえ、「アウグストゥス」と呼んで称賛した。教皇が破門した皇帝に勝利したことにより、フィリップは神がフランスに勝利を与えたと思ったことだろう。

その後

そして、戦いに敗れたオットーをライン川下流の諸侯たちは見限り、フリードリッヒ2世側に寝返ってしまう。1215年7月25日、フリードリッヒ2世はアーヘン大聖堂においてマインツ大司教から戴冠を受け、教皇にも皇帝位を認められた。オットーは第4回ラテラノ公会議に使節を送り、教皇に破門の解除を申し入れ、皇帝に返り咲くことを希望したが、インノケンティウス3世はすでにフリードリッヒ2世の皇帝就任を決定しており、オットーの破門が解かれることはなかった。

オットーは甥であるハインリッヒに帝位を継承したいと考えていたが、その計画も失敗に終わった。オットーには跡継ぎがおらず、ヴェルフェン家の手を離れた帝冠は二度と戻ってくることはなかった。失意のオットーは実権を失い、ザクセンに引きこもらざるを得なくなった。

オットーは1215年にブラウンシュヴァイクに撤退し、1218年5月にハルツブルクで政治的に孤立してこの世を去った。死の直前、オットーは自身の破門が解かれることを願ったという。彼は父、ハインリッヒ獅子公が建てた聖ブラジイ大聖堂(St. Blasii)に埋葬されたが、葬儀にはブラウンシュヴァイクのごくわずかな貴族しか参列しなかったという。聖ブラジイ大聖堂にはオットーの両親であるハインリッヒ獅子公とその最初の妻、ベアトリクスの墓石があるが、その手前に置かれた小さな記念碑がオットー4世の安息の場所を示している。

参考:

brauhnschweig.de, “Kaiser Otto IV.”, https://www.braunschweig.de/leben/stadtportraet/geschichte/welfengeschichte/kaiserotto.php

ndr.de, “Otto IV. – Einziger Welfe auf dem Kaiserthron”, Kathrin Weber, 09.11.2009, https://www.ndr.de/geschichte/chronologie/Otto-IV-Einziger-Welfe-auf-dem-Kaiserthron,kaiserkroenung100.html

welt.de, “Nach dieser Schlacht war das römisch-deutsche Reich zweitrangig”, Berthold Seewald, 12.01.2022, https://www.welt.de/geschichte/article180004378/Nach-der-Schlacht-von-Bouvines-war-das-roemisch-deutsche-Reich-zweitrangig.html

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