リチャード獅子心王のドイツ捕囚
中世史で必ず名前が出てくる、イングランドのリチャード1世(Richard I.)。その肩まで伸びたブロンドの髪と、何者をも恐れない勇猛果敢な性格から、リチャード・ライオンハート(獅子心王)と呼ばれた。彼はイングランド王に即位するや否や、十字軍遠征の為の資金を確保し、1190年の夏に遠征に出発した。フランス王フィリップ2世や、バルバロッサの愛称で知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世とともに十字軍を指揮している。
この半ば伝説と化したイングランド王だが、彼の足跡はドイツにも残っている。リチャード獅子心王は、第3回十字軍からの帰途、その権力の絶頂期に敵のレオポルト5世により捕らえられた。その後、レオポルト5世はリチャードを皇帝ハインリヒ6世(Heinrich VI.)に引き渡したのだった。リチャードはトリフェルスのライヒスブルク、現在のアルザスにあるハーゲナウ(Hagenau)の皇居、そしてライン川上流の主要都市であるシュパイアー、ヴォルムス、マインツで1年以上に渡って監禁されたのだ。
第3回十字軍遠征
前回の十字軍から40年以上が経過した1187年、イスラームのサラーフ=アッディーン(サラディン)により、エルサレムを奪われたという知らせが西ヨーロッパにとどくと、ローマ教皇はただちに十字軍の派遣を呼びかけた。第3回十字軍である。この呼びかけに応じて十字軍遠征を決めたのは、イングランド王リチャード獅子心王、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサ、フランス王フィリップ2世オーギュスト(尊厳王)という豪華な面々である。第3回十字軍は、当時、欧州を代表する君主が一堂に会したことにより、「帝王十字軍」や「諸王の十字軍」と呼ばれ、大きな注目を集めた。しかし、彼らはたがいに反目し合い、満足のいく結果は得られなかった。
イングランドのリチャード1世とフランスのフィリップ2世は、両国間の確執を一時的に解決し、1190年7月4日、合流地点であったフランス中部のヴェズレーからパレスティナへ向けて出発。 リチャードとフィリップはしばらく行進を共にした後、リチャードはマルセイユに移り、イベリア半島を周ってきたイングランド海軍の艦隊に乗船。フィリップはジェノヴァへ移り、雇っていたジェノヴァ艦隊の船で聖地を目指した。
ほどなくリチャードはシチリア島に到着。シチリア王国は、リチャードの妹ジョーンを妻として迎えていたグリエルモ2世が統治していたが、リチャードの到着前に病死していた。グリエルモの後を継いでいたのは、グリエルモの従兄にあたるタンクレーディ(Tancredi)であったが、彼はグリエルモ2世の遺産を差し押さえたばかりか、リチャードの妹であるジョーンを修道院で軟禁していた。この事実に怒ったリチャードはメッシーナを占領。力の差を見せつけられたタンクレーディは、リチャードとの和睦に応じている。無事、妹のジョーンを解放したリチャードはシチリア島を後にし、エルサレムに向けて出発した。
神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世は、レーゲンスブルクから陸を南へと進んだ。この時、なぜフリードリッヒがリチャードやフィリップと同じく、海路を取らず、より危険な陸路を選んだのかはわかっていない。事実、ビサンツ領内を通過するときには、現地で少なからず危険な状況に陥っている。
フリードリッヒの死とレオポルト5世との確執
1190年6月10日、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世は、エルサレムへの道中、現在のトルコにあるサフレ川で水死してしまう。水死した理由は様々な説があり、冷たい水に浸かったことによる心臓発作であったとも言われている。フリードリッヒ1世が不慮の死を遂げた後に、フリードリッヒ軍を率いたのが、バーベンベルク家のオーストリア公レオポルト5世である。レオポルド有徳公(der Tugendhafte)こと、レオポルト5世は、ハインリヒ2世ヤーソミルゴット(Heinrich II Jasomirgott)と、ビザンツ帝国皇帝マヌエル1世(Manuel I.)の姪であるテオドラ・コムネナ(Theodora Komnena)の間に生まれた。レオポルトはホーエンシュタウフェン家の忠実な僕であり、バルバロッサに従ってイタリア遠征にも赴いた。バルバロッサのエルサレム奪還にも同行するため、ベニスから小規模の軍隊を率いて十字軍遠征に出発した。フリードリッヒがサレフ川で溺死したあと、フリードリッヒ軍は大きく動揺し、軍の大半は帰国してしまった。レオポルトは残りの軍隊を纏め、聖地へと行進を続け、アッコンへの包囲戦にも参加。この時、レオポルトは八面六臂の活躍を見せ、敵軍の返り血を体中に受け、外したベルトの部分だけが白く残ったことから、赤地の中央に白のストライプの紋様がオーストリア国旗になったという伝説が生まれた。実際には、この旗の意匠は、バーベンベルク家が貴族から購入したものである。リチャード獅子心王とフィリップ2世が到着した後は彼らが指揮を引き継ぎ、1191年7月12日にアッコン征服に成功。この時、レオポルトとドイツ軍の残りは、アッコンの占領にはそれほど貢献しなかったにもかかわらず、リチャードとフィリップに倣って、占領地の城にバーベンベルク家の旗を高々と掲げたのであった。これに対して、リチャードは外交的に解決しようとはせず、レオポルドの旗を城の塔から引きずり下ろしたのであった。レオポルトはこの屈辱に対して、激しい怒りを覚え、1191年の終わりに戦場を後にし、翌年の11月頃にはオーストリアへと帰国している。このオーストリア公との関係悪化が後に一大事に発展することを、この時、リチャードは考えもしなかった。
実はもうひとつレオポルトの禍根となる出来事があった。エルサレム王位を巡る争いである。エルサレム王には、ギー・ド・リュジニャンが就いていた。しかし、エルサレム王家出身の妻、シビーユが疫病で死亡してしまう。こうして、エルサレム王家の継承権は、シビーユの妹であるイザベラへと移る。イザベラは既婚者であったが、離婚し、ティールを支配するコンラート1世と結婚。こうして、コンラート1世が正式にエルサレム王となったのだった。コンラートはレオポルトの従兄弟にあたるため、レオポルトはコンラートのエルサレム王位戴冠を支持し、フランス王フィリップもコンラートを支援していた。しかし、リチャードは、コンラートがエルサレム王になった後もギーを支援していたため、フィリップとレオポルトとの間に不穏な空気が流れた。コンラートがエルサレム王として戴冠される直前、暗殺教団として知られるイスラム教、ニザール派に暗殺されてしまったのだ。夫が暗殺され、未亡人となったイザベラと結婚してエルサレム王に就いたのは、リチャードの甥にあたるシャンパーニュ伯アンリ2世であった。この頃、レオポルトはすでに帰国の途にあったが、従兄弟が暗殺された経緯を知ったレオポルトは、この暗殺にリチャードが関与していたことを疑った。レオポルトはリチャードに対して猜疑心を抱いたのだった。
オーストリアでの捕囚
フランス王とイングランド国王の不仲の仲裁役であったフリードリッヒが死に、アッコンを落としたフィリップ2世は早々と戦闘を終え、フランスに帰国してしまう。フィリップ2世、そしてレオポルド5世が帰国した後も、リチャードはひとり戦闘を継続したが、結局エルサレム奪還は実現できず、1192年9月2日に帰路についている。
イングランドへの帰路、リチャードは海路を取ったが、イタリアのブリンディジ(Brindisi)沖で船は難破してしまう。何とか溺死を免れ、ベネチア近くに辿り着いた一行は、ここから陸路を通り、イングランドへの帰国を目指す。敵地を通過するという危険な状況下であったため、リチャードとお付きの者たちは巡礼者に変装した。 一行はグラーツの西100㎞に位置するフリーザッハ(Friesach)の町で最初に目撃されている。知らせを聞いたレオポルト5世はリチャードの逮捕を命じている。 この時は辛くも脱出に成功したリチャード一行であったが、1192年12月21日、一行がウィーン郊外のエルトベルク(Erdberg)に到着した時、レオポルトの追っ手を振り切ることができず、逮捕されている。一行が発見されたのは、リチャードが巡礼者らしからぬ指輪をしていたとか、お付きの者が異国のコインで支払いをしようとしたとか、様々な原因が語られている。ここから1年にも及ぶリチャードの幽閉が始まるのである。
年が明けたシュパイアー。1193年3月21日、オーストリアのレオポルト5世は捕らわれの身となったリチャードと共にシュパイアーに入った。1193年3月22日から開催されるシュパイアー帝国議会に参加する為である。会議2日目の3月23日、シュパイヤー大聖堂の前でレオポルト5世が獅子心王リチャードをハインリヒ6世に引き渡したのだった。この会議では、獅子心王ことイングランド国王リチャード1世が参加した第3回十字軍での「犯罪」について、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が訴えを起こした。
見せしめ裁判
リチャードに対する申し立てのリストは長く、その中には殺人の陰謀や十字軍の反逆罪も含まれていた。しかしリチャードはキリスト教の指導者として既に名声を得ており、ローマ皇帝ハインリッヒに対しても、論理的かつ感動的な議論を展開し、自身を巧妙に弁護した。おそらくリチャードは自分に対して同情的な皇太子や他の出席者の感情を見透かしており、そこを巧みに突いたのだった。また、リチャードは、反対派の諸侯たちと決闘裁判さえ要求したが、当代きっての勇敢な騎士であるリチャードと相対しようとするものは誰もいなかった。これは一種の「見せしめ裁判」であり、たとえ起訴状が取り下げられたとしても、リチャードは3月23日に囚人として計画通りに皇帝に引き渡されたのだった。 2日後、シュパイアー帝国議会は、ケルン・シルバーマルク(Kölner Silbermark)の重量換算で、100,000マルク相当の銀を身代金として、その支払いと引き換えに、リチャードの釈放に合意した。ケルン・シルバーマルクの重量換算では、シルバーの重さは約233グラムであったので、身代金は約23.3トンの純銀であった。
イングランドによって身代金が支払われるまで、リチャード獅子心王はさまざまな場所で数か月間人質生活を送ることとなった。1193年、リチャードはシュパイアーで復活祭を過ごしている。シュパイヤーでの勾留生活の後は、トリフェルスのライヒスブルクへと輸送された。ライヒスブルク・トリフェルスは、シュタウフェンの支配の中心部にあり、四方が激しく傾斜した岩だらけの高原に建てられたため、シュタウフェン朝にとって最も安全な場所の1つであった。リチャードは、1193年4月の初めにハーゲナウの皇居に連れて行かれる前に短期間だけここに拘留され、ここで再び皇帝ハインリヒ6世と会っている。
この後もリチャードはヴォルムス、マインツ、シュパイアーへと輸送され、それぞれの勾留地で文書を発行し、イングランドからの使者に会い、手紙のやり取りを行い、自身が治める国の行く末を指示した。辛い勾留生活を強いられていたリチャードは、1194年のクリスマス直前に書いた、教皇ケレスティヌス3世(Coelestin III.)への手紙の中で「…そして私をまるで牛かロバかのように皇帝に売ったのです!」と不平をぶちまけている。
その在位中イングランドに滞在することわずか6ヶ月であったが、ドイツを含む幽閉生活は1年近くに及んだ。この時、次のような伝説が残っている。ブロンデル(Blondel de Nesle)という吟遊詩人が、リチャードが幽閉された先を確かめるべく、城という城を渡り歩き、夜な夜なリチャードの好きな歌を歌ったという。リチャードが幽閉されていれば、返事の歌がかえってくるはずだというわけである。ブロンデルは見事リチャードの幽閉場所を見つけ出し、救出に尽力したとされるが、実際には、イングランドから身代金が支払われたのだった。
アリエノール・ダキテーヌ
リチャードの身代金を準備するために奔走したのが、アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d’Aquitaine)である。アリエノールは、最初にフランス王ルイ7世と結婚し、後にイングランド王ヘンリー2世と再婚した女傑である。この時代、アキテーヌ公領は、ガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス全土の3分の1近くを有しており、アリエノールは洗練された宮廷文化をフランス、イングランドに広めたと言われる。リチャード獅子心王とジョン欠地王は、アリエノールと夫ヘンリー2世の息子であり、長女(第3子)であるマチルダは、ザクセン公ハインリッヒ3世と結婚している(この2人の息子が、後の神聖ローマ皇帝オットー4世)。四女エレノアはカスティーリャ王アルフォンソ8世に、五女ジョーンはシチリア王グリエルモ2世にそれぞれ嫁いだ。このように、アリエノールの子息は、様々な国の君主及び妃となったことから、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれることもある。アリエノールは、自身の息子のなかでもアキテーヌを継承したリチャードを溺愛していたと言われる。リチャードが各地を転戦し、十字軍への従軍でイングランドを留守にする際にも、アリエノールは摂政としてイングランドの統治を補佐している。
このような状況であったから、リチャードがオーストリアで捕らわれた状況は、アリエノールの心を痛めた。共に身代金集めに全力を尽くし、イングランド中に重税を課してまで身代金を捻出し、側近たちを伴い、自らケルンに赴いている。この時、アリエノールは齢80歳を超えている。1194年2月の初め、アリエノールは、この莫大な身代金をマインツで皇帝に支払い、リチャードは釈放されている。この時イングランドが支払った銀は大量であり、その為、銀製のシャンデリアや銀のフォークやナイフなど、イングランドの高価な調度品でこの時代のものはほとんど残っていない。また、身代金の徴収にはイングランド中のすべての人々に影響を及ぼした。 十字軍の遠征費用と身代金。こういった重税を課された人々の過酷な生活が、ロビンフッドの伝説に繋がるのである。
イングランドから支払われた銀はドイツ皇帝とオーストリア公爵の間で分割された。 皇帝ハインリッヒ6世は、シチリア遠征のために身代金を活用し、シチリア平定後、その数倍とも言われる銀貨を獲得して戻ってきた。獲得した銀は、ヴォルムスとシュパイアーの都市の建設と強化に使用したと言われている。オーストリアは身代金として受け取った銀を活用して、ウィーンの城壁と東部の小さな町を改築し、ウィーナーノイシュタットの町を建設したのだった。 残った銀はオーストリア造幣局の設立にも使用され、この身代金に由来する少量の銀が、 1960年代までオーストリアの10シリング硬貨に含まれていたという。
帰国、そして戦死
中世騎士の模範とされた男は、マインツで解放された後、数週間ドイツを旅し、故郷のイングランドへ戻っている。リチャードが解放されたとき、フランス王フィリップ2世は、リチャードの息子で、当時リチャードと対立していたジョン(欠地王)に宛てた手紙の中で「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と書いたと言われる。イングランドに戻ったリチャードは、国内を固め、王位を回復したのち、フランスへ転戦し、フィリップ2世との戦闘を続ける。1199年3月25日、アキテーヌ公領シャリュでシャリュ城を攻撃中、敵の矢を受け死亡。41歳の生涯に幕を閉じたのだった。
参考:
geschichte-wissen.de, “Richard Löwenherz in der Pfalz – sehenswerte Ausstellung in Speyer”, 29. Juli 2017, https://geschichte-wissen.de/blog/richard-loewenherz-in-der-pfalz-sehenswerte-ausstellung-in-speyer/
visitworldheritage.com, “Richard Lionheart and Blondel”, https://visitworldheritage.com/en/eu/richard-lionheart-and-blondel/754b23ed-57e4-43ed-ae3e-d98ef9f87bf1
worms.de, “Englischer König saß im Wormser Knast”, https://www.worms.de/de/kultur/stadtgeschichte/wussten-sie-es/liste_persoenlichkeiten/2008-05_englischer-koenig.php
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