捕らわれた英国王 | リチャード・ライオンハート

シュパイヤー

リチャード獅子心王のドイツ捕囚

ライン川が鏡のように空を映し、川沿いに広がる深い森が歴史の沈黙を守るプファルツ地方。

シュパイアーの巨大な大聖堂が放つ荘厳な威圧感は、かつてこの地が神聖ローマ帝国の心臓部であったことを無言で物語っている。

霧に包まれた朝、ラインの流れを見下ろせば、中世の騎士たちが馬の蹄を響かせ、王たちの野望が渦巻いた時代の残響が、今も風に乗って聞こえてくるかのようだ。

伝説の王リチャードが、その獅子の如き魂を囚われ、数多の城や都市を転々とした流浪の軌跡。

それは、イングランドの英雄がドイツの冷徹な政治劇に翻弄された、数奇な物語の序章であった。

中世史を紐解けば必ずその名が登場する、イングランド王リチャード1世(Richard I.)。

肩までなびくブロンドの髪と、何者をも恐れぬ勇猛果敢な気性から「獅子心王(リチャード・ライオンハート)」の名で知られる彼は、まさに中世の騎士道を体現する君主であった。

王位に就くや否や、彼は十字軍遠征を完遂すべく執念で資金を確保し、1190年の夏、ついに聖地へと旅立った。

フランス王フィリップ2世、そして「赤髭(バルバロッサ)」として畏怖された神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と共に、最強の布陣で十字軍の指揮を執ったのである。

この半ば伝説と化したイングランド王だが、その足跡は遠く離れたドイツの地にも色濃く残されている。

第3回十字軍の帰途、まさに権力の絶頂にあったリチャードを待ち受けていたのは、非情な運命の暗転であった。

遠征中の確執から敵対関係にあったオーストリア公レオポルト5世の手によって、彼は捕らわれの身となってしまったのである。

その後、レオポルト5世は身代金と政治的取引のために、リチャードを神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(Heinrich VI.)へと引き渡した。

こうしてイングランドの獅子は、ドイツの地で1年以上に及ぶ監禁生活を余儀なくされることとなった。

彼は難攻不落の要塞として知られるトリフェルスのライヒスブルク、現在はアルザスに属するハーゲナウ(Hagenau)の皇居、さらにはライン川上流の主要都市であるシュパイアー、ヴォルムス、そしてマインツといった各都市を転々と連行され、厳重な監視下に置かれたのである。

中世ヨーロッパを震撼させた英雄が、ドイツの石造りの壁の内に閉じ込められ、帝国の政治的駒として扱われるという、屈辱に満ちた日々であった。

第3回十字軍遠征

前回の十字軍から40年以上の歳月が流れた1187年。

イスラームの英雄サラーフ=アッディーン(サラディン)の手によって聖地エルサレムが陥落したという衝撃の報が西欧を駆け巡ると、ローマ教皇は直ちに奪還のための十字軍派遣を宣言した。

これが歴史に名高い第3回十字軍である。

この聖戦の呼びかけに応じ、歴史の表舞台に名乗りを上げたのは、まさに欧州の命運を握る豪華な顔ぶれであった。

イングランドの勇者リチャード獅子心王、神聖ローマ帝国の至高なる皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサ、そしてフランスの知将フィリップ2世オーギュスト(尊厳王)。

当代随一の君主たちが一堂に会したこの遠征は、人々の期待と熱狂を一身に集め、いつしか「帝王十字軍」あるいは「諸王の十字軍」という栄光に満ちた名で呼ばれるようになる。

しかし、その輝かしい呼び名とは裏腹に、誇り高き王たちは互いに激しい火花を散らして反目し合い、軍としての足並みは乱れ続けた。

その結果、歴史的な期待を背負ったこの大遠征も、満足のいく成果を上げられぬまま終焉を迎えることとなったのである。

イングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世は、両国間に横たわる積年の確執を一時的に棚上げし、1190年7月4日、合流の地となったフランス中部のヴェズレーからパレスティナを目指し進軍を開始した。

両王はしばらくの間行動を共にしていたが、やがてリチャードはマルセイユへと向かい、イベリア半島を大きく迂回してきたイングランド海軍の艦隊へと乗り込んだ。

一方、フィリップはジェノヴァへと移動し、あらかじめ傭船していたジェノヴァ艦隊の船に身を委ね、それぞれの航路で聖地へと旅立ったのである。

ほどなくしてシチリア島に到着したリチャードを待ち受けていたのは、予期せぬ身内の窮状であった。

かつてシチリア王国は、リチャードの妹ジョーンを王妃に迎えたグリエルモ2世が統治していたが、彼はリチャードの到着を待たずして病に倒れていたのである。

王位を簒奪するように継承した従兄のタンクレーディ(Tancredi)は、先王の遺産を不当に差し押さえたのみならず、リチャードの愛妹ジョーンを修道院に軟禁するという暴挙に出ていた。

この非道に獅子の如き怒りを爆発させたリチャードは、電撃的にメッシーナを占領。

圧倒的な武威の差を見せつけられたタンクレーディは、恐れをなして和睦を乞うこととなった。

無事に妹を救い出したリチャードは、ようやくシチリアの地を後にし、聖都エルサレムを目指して再び発ったのである。

一方、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、レーゲンスブルクから遥か南へと陸路を突き進んでいた。

リチャードやフィリップが選んだ安全な海路を捨て、なぜ皇帝が敢えて峻烈で危険な陸路を選んだのか、その真意は今も謎に包まれている。

案の定、ビザンツ帝国領内を通過する際には、現地勢力との摩擦により幾度となく危機的な状況に直面することとなった。

フリードリッヒの死とレオポルト5世との確執

1190年6月10日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、聖地への途上、現在のトルコを流れるサレフ川で帰らぬ人となった。

その死はあまりに突然の水死であり、一説には冷たい川水に浸かったことによる心臓発作が原因であったとも伝えられている。

偉大なる皇帝の不慮の死を受け、動揺する軍の指揮を引き継いだのが、バーベンベルク家出身のオーストリア公レオポルト5世であった。

「有徳公(der Tugendhafte)」と称えられた彼は、ハインリヒ2世ヤーソミルゴットと、ビザンツ皇帝マヌエル1世の姪テオドラ・コムネナとの間に生を受けた貴公子である。

ホーエンシュタウフェン家への忠誠心は厚く、かつてはバルバロッサのイタリア遠征にも従軍した。この十字軍においても皇帝の志を支えるべく、ヴェネツィアから精鋭を率いて参戦していたのである。

皇帝の死により軍の大半が帰国を余儀なくされる中、レオポルトは残存兵力を糾合して聖地への進軍を継続し、アッコン包囲戦に身を投じた。

この地で彼は八面六臂の凄まじい働きを見せる。激戦の末、彼の白い騎士服は敵の返り血で真っ赤に染まり、ベルトを締めていた部分だけが奇跡的に白く残った。

これが、現在のオーストリア国旗である「赤・白・赤」の意匠の由来となったという鮮烈な伝説を生んだのである。

もっとも、実際にはこの紋様はバーベンベルク家が他の貴族から買い取ったものとされている。

その後、リチャード獅子心王とフィリップ2世が戦場に到着すると、指揮権は両王へと移り、1191年7月12日にアッコンは陥落した。

この際、レオポルトとドイツ軍の貢献は決して大きなものではなかったが、彼は両王の振る舞いに倣い、占領した城壁の塔に自らのバーベンベルク家の旗を掲げた。

しかし、この越権行為にリチャードは激昂する。外交的な解決など微塵も考えぬリチャードは、衆目の中でレオポルトの旗を城から引きずり下ろし、投げ捨てたのである。

この癒えぬ屈辱を胸に刻んだレオポルトは、同年の末に戦場を去り、翌年11月頃に帰国した。

自らの傲慢さが招いたこの亀裂が、後に己の命運を左右する大事件へと発展することを、リチャードはまだ知る由もなかった。

さらにレオポルトの心中には、もう一つの深い禍根が渦巻いていた。

エルサレム王位の継承権を巡る泥沼の争いである。

王妃シビーユの死後、継承権は妹イザベラへと移り、彼女の夫となったティール領主コンラート1世が新たな王として認められることとなった。

コンラートはレオポルトにとって従兄弟にあたり、フランス王フィリップもその即位を支持していた。

対してリチャードは、退位すべきギー・ド・リュジニャンを執拗に支援し続け、陣営には不穏な空気が漂った。

しかし、戴冠を目前に控えたコンラートは、暗殺教団として恐れられたニザール派の手によって暗殺されてしまう。

未亡人となったイザベラと再婚し、王位を射止めたのはリチャードの甥であるシャンパーニュ伯アンリ2世であった。

すでに帰路についていたレオポルトはこの凶報に接し、最愛の従兄弟が殺された背後に、リチャードの黒い陰謀があるのではないかと疑念を深めていった。

こうしてリチャードに対する猜疑心と憎悪は、取り返しのつかないほどに膨れ上がっていったのである。

リチャードが引き渡されたシュパイヤー大聖堂

オーストリアでの捕囚

両王の仲裁役であったフリードリヒ1世がこの世を去り、アッコン陥落を見届けたフィリップ2世もまた、早々と戦塵を払ってフランスへと帰国してしまった。

盟友たちを失い孤立無援となったリチャードは、その後も執念深く独りで戦闘を継続したが、悲願であるエルサレム奪還はついに叶わぬ夢に終わった。

1192年9月2日、獅子心王は苦渋の決断を下し、故国への帰路についたのである。

イングランドへの帰路、海を渡るリチャードをさらなる不運が襲った。

イタリアのブリンディジ(Brindisi)沖で激しい嵐に遭遇し、船が難破してしまったのである。

辛うじて死地を脱し、ヴェネツィア近郊の海岸に辿り着いた一行は、そこから陸路でイングランドを目指すという極めて危険な道を選ばざるを得なかった。

敵地を横断するという絶体絶命の状況下、リチャードたちは身分を隠すべく巡礼者の姿に変装した。

一行が最初に目撃されたのは、グラーツの西100kmに位置するフリーザッハ(Friesach)の町であった。

かつての屈辱を忘れていなかったレオポルト5世は、この報を聞くや否や、直ちにリチャードの逮捕を厳命した。

この時は間一髪で窮地を脱した一行であったが、1192年12月21日、ウィーン郊外のエルトベルク(Erdberg)に到着した際、ついに執拗な追っ手に捕らえられてしまう。

発見のきっかけについては、リチャードが巡礼者には不釣り合いな高価な指輪をしていた、あるいは従者が異国の硬貨で支払いをしようとして怪しまれたなど、多くの逸話が残されている。

こうして、中世ヨーロッパを震撼させた英雄による、1年にも及ぶ孤独な幽閉生活の幕が上がったのである。

年が明けたシュパイアー。

1193年3月21日、オーストリア公レオポルト5世は、捕らわれの身となったリチャードを伴いこの街に入った。

翌3月22日から開催されるシュパイアー帝国議会に出席するためである。

会議2日目にあたる3月23日、シュパイアー大聖堂の前で、レオポルト5世はついに獅子心王リチャードを皇帝ハインリヒ6世へと引き渡した。

この議会の場において、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世は、イングランド国王リチャード1世が第3回十字軍遠征中に行ったとされる数々の「犯罪」について、正式に訴えを起こしたのである。

ハインリッヒの足にキスをするリチャード(ベルン市民図書館蔵)

見せしめ裁判

リチャードに対する申し立てのリストは極めて長く、その中には暗殺の陰謀や十字軍における反逆罪といった重罪までもが含まれていた。

しかし、キリスト教世界の勇者として既に揺るぎない名声を得ていたリチャードは、皇帝ハインリヒ6世を前にしても、論理的かつ情熱的な弁論を展開し、自らを巧みに弁護してみせた。

彼は、列席していた皇太子や諸侯たちが抱く同情的な空気を鋭く察知し、その心情を巧みに突いたのである。

さらにリチャードは、反対派の諸侯たちに対して決闘裁判までも要求したが、当代随一の騎士と謳われた彼と刃を交えようとする者は一人としていなかった。

もっとも、これは多分に「見せしめ裁判」の側面が強く、たとえ起訴内容が退けられたとしても、リチャードは当初の計画通り3月23日に囚人として皇帝に引き渡された。

その2日後、シュパイアー帝国議会は、リチャードの釈放条件として100,000マルク相当の銀の支払いに合意した。

これはケルン・シルバーマルクの重量換算に基づくもので、1マルクが約233グラムであったことから、身代金の総重量は約23.3トンという膨大な純銀にのぼった。

イングランド側によるこの莫大な身代金の支払いが完了するまで、獅子心王リチャードは各地を転々としながら、数か月におよぶ人質生活を送ることとなった。

1193年の復活祭をシュパイアーで過ごした後、彼はトリフェルスのライヒスブルクへと移送された。

四方を険しい岩壁に囲まれた高原に立つこの城砦は、シュタウフェン朝の支配の象徴であり、皇帝にとっても最も安全な拠点の一つであった。

リチャードはこの堅牢な要塞に短期間留め置かれた後、1193年4月初旬にハーゲナウの皇居へと連行され、そこで再び皇帝ハインリヒ6世と対峙することになる。

トリフェルスのライヒスブルク

その後もリチャードはヴォルムス、マインツ、そして再びシュパイアーへと移送を繰り返された。

しかし、彼は囚われの身にありながらも、それぞれの勾留地で公文書を発行し、イングランドから訪れる使者と面会しては書簡を交わし、自国が辿るべき行く末を精力的に指示し続けた。

とはいえ、過酷な拘束生活は確実に王の精神を削っていた。

1194年のクリスマス直前、教皇ケレスティヌス3世に宛てた手紙の中で、リチャードは「……そして私をまるで牛かロバかのように皇帝に売ったのだ!」と記し、その理不尽な境遇への怒りと不平を露わにしている。

その在位期間中、イングランドに滞在したのはわずか6ヶ月に過ぎなかったが、ドイツでの幽閉生活は1年近くに及ぶこととなった。

この幽閉時代については、一つの有名な伝説が語り継がれている。

忠義に厚い吟遊詩人ブロンデルが、主君の行方を突き止めるべく各地の城を巡り歩き、夜ごとリチャードの愛した歌を口ずさんだというものである。

もし王がそこに囚われているならば、必ずや返歌があるはずだと信じての行動であった。

伝説では、ブロンデルは見事に幽閉場所を突き止め、王の救出に多大な貢献をしたとされている。

しかし歴史的な事実としては、イングランド側が用意した膨大な身代金の支払いによって、ようやく獅子の解放が実現したのであった。

アリエノール・ダキテーヌ

リチャードの身代金を工面するために不眠不休の奔走を続けたのは、母アリエノール・ダキテーヌであった。

フランス王ルイ7世との結婚を経て、イングランド王ヘンリー2世と再婚した彼女は、まさに時代を象徴する女傑であった。

当時、彼女が治めるアキテーヌ公領はフランス全土の3分の1近くを占める広大なものであり、彼女自身もまた、洗練された宮廷文化を英仏両国に広めた存在として知られている。

リチャード獅子心王やジョン欠地王は彼女の息子であり、長女マチルダはザクセン公に、四女エレノアはカスティーリャ王に、そして五女ジョーンはシチリア王に嫁ぐなど、その子女が欧州諸国の王座を彩ったことから、アリエノールは「ヨーロッパの祖母」とも称された。

彼女は多くの子の中でも、アキテーヌを継承したリチャードを殊の外溺愛しており、王が不在の折には摂政としてイングランドの統治を盤石に支え続けていた。

それゆえに、最愛の息子がドイツの地で囚われの身となった報は、アリエノールの心を深く痛めた。

彼女は身代金捻出のためにイングランド全土に重税を課し、自らも側近を伴ってケルンへと向かった。

この時、彼女の齢はすでに80を超えていたという。1194年2月初旬、マインツの地でアリエノールはついに膨大な身代金を皇帝へと支払い、リチャードの釈放を勝ち取ったのである。

この時支払われた銀の量はあまりにも膨大であったため、イングランド国内にあった銀製のシャンデリアや食器といった調度品の類は、この時代のものはほとんど現存していないと言われる。

十字軍の遠征費用に続くこの巨額の身代金徴収は、イングランド全土の人々の暮らしを困窮させた。

こうした重税に喘ぐ民衆の過酷な生活が、後に語り継がれる義賊ロビン・フッドの伝説を生む土壌となったのである。

リドリー・スコット監督作《ロビンフッド》

イングランドから支払われた膨大な銀は、神聖ローマ皇帝とオーストリア公の間で分割して収められた。

皇帝ハインリヒ6世はこの富をシチリア遠征の軍資金として活用し、見事に平定を果たした後、略奪品として元の身代金を数倍も上回る銀貨を獲得して帰還した。

こうして得られた莫大な銀は、ヴォルムスやシュパイアーといった都市の建設、および防御を固めるための補強工事に投じられたと伝えられている。

一方、オーストリア側も受け取った銀を惜しみなく注ぎ込み、ウィーンの城壁や東部の諸都市を改築したほか、軍事拠点となるウィーナー・ノイシュタットの街を新たに建設した。

残った銀はオーストリア造幣局の設立資金にも充てられ、その身代金に由来する銀の一部は、実に1960年代までオーストリアの10シリング硬貨の中に含まれ続けていたという。

帰国、そして戦死

中世騎士の模範と謳われた男は、マインツの地でついに自由の身となり、数週間にわたるドイツ各地の旅路を経て、故郷イングランドへの帰還を果たした。

リチャード釈放の報に接したフランス王フィリップ2世は、当時王位を狙って兄と対立していたジョン(欠地王)に対し、「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」との一文を送り、畏怖を露わにしたと伝えられている。

イングランドに帰還したリチャードは、直ちに国内の基盤を固めて王威を回復させると、休む間もなく宿敵フィリップ2世との決戦に備えてフランスへと渡った。

しかし、戦場を駆け抜けた獅子の最期は唐突に訪れる。

1199年3月25日、自領アキテーヌのシャリュ城を攻めていた際、敵が放った一本の矢が彼の身体を貫いた。その傷がもとで、リチャード1世は41歳の若さで波乱に満ちた生涯に幕を閉じたのである。

リチャードの銅像

中世の荒々しい情熱と冷徹な政治が交錯した「諸王の十字軍」は、聖地奪還という崇高な大義を掲げながらも、リチャード獅子心王とレオポルト5世の間に拭い難い確執を残した。

アッコンの塔から引きずり下ろされた一枚の旗、そしてエルサレム王位を巡る暗殺の嫌疑。

それらの私怨は、帰路に就いた王をウィーン郊外での捕縛という最悪の悲劇へと導いた。

獅子の如き勇猛さを誇った王が、巡礼者の姿で敵地を彷徨い、最後には一頭の家畜のように皇帝へ売り渡されたという事実は、権力の無常さを何よりも雄弁に物語っている。

母アリエノールの献身によってもたらされた膨大な身代金は、イングランドの調度品を空にし、民衆を困窮させた一方で、ドイツの地に強固な城壁と新たな都市を築き上げた。

皮肉にもリチャードが失った富は、宿敵たちの版図を潤し、オーストリアの通貨制度の礎となって数世紀後までその痕跡を留めることとなった。

一人の英雄の失脚が、欧州の経済と勢力図を塗り替え、ロビン・フッドのような伝説を民衆の心に刻ませた。

歴史とは、王たちの傲慢と、それに翻弄される人々の営みが織りなす、皮肉に満ちたタペストリーに他ならない。

今日、ライン川の畔に佇むシュパイアーの街を歩けば、その重厚な石畳の下に、かつての獅子心王の足跡が今も静かに息づいている。

皇帝に引き渡された大聖堂前の広場や、彼が復活祭を過ごし、故国への指示を送り続けた勾留の地。

リチャードが眺めたであろう大聖堂の巨大なシルエットは、今も変わらぬ威厳を保ち、聖と俗、栄光と屈辱が交錯したあの日々を見守り続けている。

この街の静謐な空気の中に身を置くとき、私たちは数世紀の時を超えて、囚われの身でありながら王としての矜持を失わなかったリチャードの、孤独で高潔な魂の咆哮を聞くのである。

参考:

geschichte-wissen.de, “Richard Löwenherz in der Pfalz – sehenswerte Ausstellung in Speyer”, 29. Juli 2017, https://geschichte-wissen.de/blog/richard-loewenherz-in-der-pfalz-sehenswerte-ausstellung-in-speyer/

visitworldheritage.com, “Richard Lionheart and Blondel”, https://visitworldheritage.com/en/eu/richard-lionheart-and-blondel/754b23ed-57e4-43ed-ae3e-d98ef9f87bf1

worms.de, “Englischer König saß im Wormser Knast”, https://www.worms.de/de/kultur/stadtgeschichte/wussten-sie-es/liste_persoenlichkeiten/2008-05_englischer-koenig.php

コメント

タイトルとURLをコピーしました