【ドイツの歴史】マティアス・ウェーバー|ライン下流地域を荒らしまわった悪党

ケルン

ドイツ犯罪史に名を刻む強盗

18世紀末、中部ライン地方とフンスリュック(Hunsrück)では、シンダーハンネス(Schinnerhannes)という悪党が暴れまわっていた。このシンダーハンネスは、本名をヨハネス・ビュックラー(Johannes Bückler)といい、何百件という犯罪を犯していた。ドイツ犯罪史において、シンダーハンネスは当時、凶悪犯罪者のうち最も有名なひとりであり、その生涯は一部伝説のように語られるようになった。この伝説化に貢献したのは、シンダーハンネスが略奪品を貧しい人々に配ったという説が流布された為である。

同じ時期、ライン下流地域では、マティアス・ウェーバー(Mathias Weber)という男が悪党としてその名前を広めており、ライン川とムーズ川の間で市民を恐怖に陥れていた。マティアス・ウェーバーは「フェッツァー」(Der Fetzer)というあだ名が付けられていた。この二人の犯罪者はドイツ各地で様々な犯罪を犯し、当局の追っ手を逃げまわり、最終的にはふたりともちょうど 218 年前に大勢の観客の前で処刑が行われた。シンダーハンネスはマインツで処刑され、フェッツァーはケルンでギロチンに架けられた。

《フェッツァー》と呼ばれた強盗

ライン川下流地域に出没したマティアス・ウェーバーは、犯罪集団のリーダーとしては背が低く、痩せ型という外見的特徴であったが、当時の当局のファイルに記載されているように「大胆で賢い」と考えられていた。ノイス市の西にあるディルケ(Dirke)の集落で生まれた青年は、木こりであり、見捨てられたフランス兵であり、大胆で暴力的な襲撃で何年もの間悪名を馳せていた。1799 年の秋、マティアス・ウェーバーは、ヴェッツラーの町にいたヨハン・ミュラー(Johann Müller)という別の犯罪集団の頭とともに、毎週多額の金を輸送していたケルンーエルバーフェルト(Köln-Elberfelder)間を走行する郵便馬車を標的にした。

マティアス・ウェーバーは「フェッツァー」(Der Fetzer)というあだ名が付けられていたが、この「フェッツァー」が何を意味するのかは分かっていない。「フェッツァー」という語がドイツ語の「ツェアフェッツエン」(zerfetzen)という動詞に由来する場合、これは「引き裂く・切り裂く」という意味になり、「マティアス・ウェーバーが強盗の犠牲者を残忍にも切り裂いた」という意味にもとれる。また「フェッツエン」(fetzen)という動詞には、方言で「荷物を (気づかれずに) 馬車から切り離す」ことを意味していたという説もある。

強盗計画

入念に練られた計画で、武装した20名の犯罪者集団が、郵便局を兼ねていた居酒屋の前で警備の薄い郵便トラックを襲った。強盗に出くわした御者、宿屋の主人はあえて抵抗せず、縛られ、猿轡を噛ませられた。金がこぼれそうなほど積み込まれた馬車を奪った犯罪集団は、ライン川に逃げ、当時フランスが支配していたライン川の左岸へと船で逃げた。この時の戦利品だけでも13,000 ライヒスタールに達し、当時としては莫大な金額であった。

クレフェルト(Krefeld)、ノイス、ケルン、ノイヴィート(Neuwied)などの拠点を変えながら、いわゆる「大ニーダーランド盗賊団」(Großen Niederländischen Bande)の犯罪集団は、マティアス・ウェーバーをリーダーとして、ライン川下流・中流域をさらに荒らしまわった。何度も捕らえられたウェーバーは、ケルンやノイスなどの牢獄や拘留塔に投獄されたが、その度に脱獄に成功している。

当局の反撃

しかし、ランゲンフェルドで起こした郵便強盗事件の後、マティアス・ウェーバーに対する捜索は厳しくなっていき、フランス、ヘッセン、プロイセンの当局から指名手配が出された。これまで逮捕できなかった州当局はついに反撃を開始し、 1802年5月31日、フランクフルト・アム・マインでウェーバーの捕獲に成功した。 1802年6月16日午前3時半、軍の護衛が強盗のリーダーを共犯者のグループと共にマインツへ移送し、一団は裁判のためにフランスに引き渡され、ウェーバーはすぐにケルンの法廷に引き渡された。1801年9月、ナポレオンの布告に従い、最初の犯罪者特別法廷がケルンに設置された。この特殊な管轄権は、例えば、田舎道での強盗や武装集団による犯罪に対して死刑宣告を下すことができた。フランス統治時代にはマインツを含む 4 つの地域において特別法廷が設置されていた。

ケルン法廷における尋問中に、マティアス・ウェーバーは181件の強盗と121件以上の未遂事件を認めた。残忍な犯罪の中でも特にウェーバーが何年も前に妻を殺害したという事実は重くのしかかった。特別法廷は彼に死刑を宣告。 1803年2月19日の土曜日、マティアス・ウェーバーはケルンのアルターマルクト(Alter Markt)でギロチンにかけられた。これはケルンの処刑場で行われた最後の公開処刑であった。

マティアス・ウェーバーに関する木版の印刷物。ケルン市立博物館蔵。(Source:rheinische-geschichte.lvr.de)

参考:

rheinische-art.de, “Ein Ende unterm Fallbeil”, 03.2021, https://www.rheinische-art.de/cms/topics/rheinische-raeuberbanden-der-fetzer-mathias-weber-schinderhannes-postraub-langenfeld.php

portal rheinische Geschichite, “Mathias Weber”, https://www.rheinische-geschichte.lvr.de/Persoenlichkeiten/mathias-weber/DE-2086/lido/57c833e79249f6.80910163

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