フランクフルトの頭蓋骨

フランクフルト

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは自伝「詩と真実」の中で、故郷のフランクフルト・アム・マインで、子供の頃の恐ろしい体験について報告している。それは橋の塔に突き刺さった「国家犯罪者の頭蓋骨」であった。 「ザクセンハウゼン(Sachsenhausen )からフランクフルトに戻るときはいつでも、目の前に塔があり、頭蓋骨が目に留まった。」

この頭蓋骨は、17世紀初め、ユダヤ人を迫害し恐怖に陥れたレープクーヘン屋を営むヴィンツェンツ・フェットミルヒ(Vinzenz Fettmilch)とその一味のものであった。ユダヤ人への迫害について、市民に警告を促す目的で掲げられたものだった。 1614年、フェットミルヒは帝国自由都市の評議会に対して反乱を起こし、ユダヤ人コミュニティは町から追放されることとなった。しかし、時代は中世とは異なり、17世紀である。事件の首謀者は罪を問われることとなり、1616年2月28日、首謀者の絞首刑で終わりを迎えたのだった。

事件の首謀者であるフェットミルヒとは一体何者であったのか?フェットミルヒは1590年頃にフランクフルトにやって来た。フェットミルヒは病院での働き口を得ることに失敗した後、レープクーヘンを焼く仕事に転職し、最終的にバター、オイル、ベーコンを扱うギルドに受け入れられた。

大きな貿易都市では、16世紀の急速な経済発展を遂げたが、同時に社会的混乱を引き起こした。というのも、皆がその発展の恩恵を受けたわけではなかったからだ。フランドルとワロンから新たに町にやって来た人々はブームの恩恵を受けたが、昔ながらの職人、小さな商店、食料雑貨店は経済発展から取り残されたのだ。

これは、市の政治的リーダーシップにも反映されていた。評議会は商人によって支配されていた。商人も2つの陣営に分かれていた。一方のグループは土地に投資し、貴族のような豪奢な生活を送っていたグループであった。もう一方は成長する長距離貿易に投資した商人たちであった。職人組合であるギルドのメンバーは評議会からますます疎まれ、わずかな発言権しか認められなかった。

1612年6月にフランクフルトで新しい皇帝が選出される予定であったが、ここでもひと悶着があった。候補者はハプスブルク家出身のオーストリア大公兼ボヘミア王のマティアスであった。彼の兄で前任者のルドルフ2世の選挙と同様、市民はマティアスと対立候補の存在を自分たちの要望を実現するための機会としてとらえた。フランクフルト市民の目的は、発言権の拡大、穀物価格の値下げ、自由な穀物市場の確立、そしてユダヤ人とキリスト教の銀行家によって「不当に」引き上げられた金利を安くすることであった。

「政治市民の抗議、社会不安、反ユダヤ主義は同時に起こった」と歴史家のハインツ・シリンクは書いている。

当初、新しい皇帝マティアスが仲介し、その交渉にフェットミルヒが組合の代表として参加した市民の契約に関する状況は緩和された。評議会は拡大され、財務状況に対する監査が行われた。都市は多額の借金を抱えており、ユダヤ人たちが「ユダヤ人の活動」を行った後に支払わなければならなかった「手数料」は公的予算に流れ込まず、一部の貴族が自分たちのポケットに収めていたのだった。暴動が発生し、評議会の解任を求めたが、皇帝はこれに反対した。これまでもそうであったように、経済の悪化、飢餓、疫病の蔓延が町を襲ったときには、大衆は犯人探しを行い、いつものようにユダヤ人をスケープゴートに仕立てあげるのだった。

1614年8月22日、主に手工業者の団体から成る酒に酔った暴徒は、フェットミルヒに率いられ、町を歩き回り、ユダヤ人通りを襲った。約2,000人のユダヤ人が、フランクフルトでコミュニティを形成していた。 ユダヤ人はゲットーにあった3つの門でわずかな時間防衛を試みたが、その後はわずかな所持品だけを持って墓地へと逃げるしかなかった。

襲撃されるユダヤ人たち(Source:wikipedia.de)

その間、暴徒は倉庫・金庫を物色し、貴重品を探して回った。 食器や洗濯物が盗まれ、約束手形が燃やされた。これは、ポグロムの経済的側面を示してる。 自警団が暴動の鎮圧に成功するまで、暴動は13時間にわたって行われたと言われる。フェットミルヒは恐怖に怯えたユダヤ人たちに、彼らを殺害することではなく、追放することが目的であると説明した。 1,380人のユダヤ人市民はすぐに町を離れなければならず、ハーナウとヘーヒストに一時的に移り住むこととなった。

町を追い出されるユダヤ人たち
(Source: wikipedia.de)

この事態に対して、神聖ローマ皇帝マティアスはユダヤ人に対する皇帝の保護義務を真摯に受け止めた。 10月、皇帝はフェットミルヒとその首謀者を帝国追放処分とし、その後、首謀者は裁判にかけられ、7人が死刑判決を下された。暴動の首謀者らは1616年2月28日にロスマルクト(Rossmarkt)で最初に宣誓の手の2本の指を切断され、次に斬首によって処刑された。 リーダーのフェットミルヒは八つ裂きにされた。 マイン川右岸にある橋塔の柱に首謀者たちの頭部が串刺しにされており、これが若いゲーテを怖がらせた。

フェットミルヒの処(wikipedia.de)

皇帝は1617年にユダヤ人の保護に関する新しい条例を出し、ユダヤ人たちは神聖ローマ帝国の終わりまでその保護の下で生き残ることができた。 ユダヤ人は毎年、《プリム・ヴィンツ》(Purim Vinz)という伝統的なユダヤ人の祭りのなかでこの救いを祝ったのだった。フェットミルヒの家は取り壊され、その場所には【恥の柱】と呼ばれる小さな碑が建てられた。これは彼の恥ずべき行為を忘れず後世に伝える目的であったが、1719年に周囲の壁が崩壊したときに柱も破壊されてしまい、現在は残っていない。

【恥の柱, Schandsäule】(Source: wikipedia.de)

参考:

welt.de, “Sie schlugen ihm die Schwurfinger ab, enthaupteten und vierteilten ihn”, 28.02.2022, Berthold Seewald, https://www.welt.de/geschichte/kopf-des-tages/article237199421/Fettmilch-Aufstand-in-Frankfurt-Sie-enthaupteten-und-vierteilten-ihn.html

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